【神奈川のこと49】やはり根岸には、牛がいた(横浜市磯子区)
先日、神奈川新聞を読んでいて「おっ、」と思わず膝を打った。
よって、これを書く。
昭和45年(1970年)鎌倉は二階堂で生まれた。翌年の暮、つまり昭和46年(1971年)に横浜市中区根岸旭台にある、根岸台ハイツに引っ越す。以降、昭和53年(1978年)1月中旬までの6年間を、この根岸の地で過ごした。
物心というのは、この間に付いた。
根岸台ハイツは、JR根岸駅で石油コンビナートを背にして立つと、眼の前に見える山の上にある。今はモウ、高い建物が乱立していてよく見えない。
不動坂という坂を上がったところにそのハイツは建っているのだが、この不動坂には歩道がない。だから徒歩で根岸駅方面から行く場合、駅前の、本牧通りへと続く大きな車道を渡り、真っすぐ山に向かって突き進む。そうすると階段があり、それを利用して山を上るという行き方となる。
この階段、なかなか味がありましてね。
当時、ふもとの崖は、山肌がむき出しになっておりまして、水がしみ出てサワガニがいたのであります。母と弟と三人でジャンケンをしながら、「グリコ」「チヨコレイト」「パイナツプル」の遊びをよくやったものです。そしてその中腹には、朽ち果てたモーターバイクが無残な姿を晒していまして、これがまた実に不気味でした。きっとあのモーターバイクは、「けーばじょー(競馬場のこと)」と当時呼んでいた根岸森林公園方面から下りてきて、不動坂上のカーブを曲がり切れずに落ちてしまったと思われるのであります。父は朝晩、その階段を使って通勤していましたが、夜の帰り道によくまあ、あの不気味なモーターバイクの横を通って来られるなと、大人ってすごいなと、子供心に感心したものであります。
モウあれから40年以上の月日が流れた。果してあのサワガニと朽ち果てたモーターバイクは本当に存在したのだろうかと、記憶を疑い始めている今日この頃であった。確かに、はっきりと記憶にある。しかしどうだろうか、アレルギー性鼻炎でしょっちゅう鼻がつまっていて、頭の中がぼんやりとしていた当時のはなたれ小僧の記憶なんて、信用していいものだろうか。ついでに排気ガスの匂いも大好きで、常に半分ラリっていたと言っても過言ではない。あまつさえ、おねしょもしていた。いいのだろうか。
夢かうつつか、幻か。
さて、そんな幻かもしれない記憶のモウ一つに、「牛」がある。
根岸駅前の車道を渡り、くだんの階段に向かう途中、一本左へ入ったところに、牛舎と四角く囲われた小さな牧場があった。
駅前のスーパーマーケット、「スーパーハロー」に母と一緒に行った帰り道、「牛が見たい」と言ってはその牧場に寄り道をした。
独特の匂い、「モ~」という鳴き声、そして牛そのものの存在。
ずっと見ていられた。
しかし最近は、「あんなところに牧場があるわけなかろう」という考えが支配するようになった。でっかい石油コンビナートが近くにあって、大きな車道が通っている、その一本奥まった路地に牧場なんかがあるわけなかろうと。きっと、あれは当時の鼻づまりの少々ラリった頭の中で、自分だけが描いていた幻想に違いないと、考えるようになっていた。
それが、先般の神奈川新聞に「かつて横浜にはたくさんの牧場があった」という記事と出逢い、「おっ、」となり、「う~ん」と唸りながら膝を打った次第である。
その記事によると横浜には、安政6年(1859年)の開港後、多くの外国人が居留するようになり、牛乳文化が一気に広まった。その供給のために日本初の牧場が誕生した。そして横浜の港を取り囲むように、多数の牧場ができていったとのこと。それを、「横浜のミルク・リング」と呼ぶ。何と、昭和30年(1955年)まで、神奈川県の牛乳生産量は、北海道に次いで全国で2番目を誇っていたと。
これで謎が解けた。
あの牛はきっと、「横浜のミルク・リング」の名残であったのだ。
サワガニ、朽ち果てたモーターバイク、そして牛。
昭和40年代後半から50年代前半、根岸に存在していた光景。
モウ、はなたれ小僧の記憶を疑うのは止めにしよう。
「ジャンケンポン!」。
「グリコ、チヨコレイト、パイナツプル」。
若き日の母と幼い二人の息子の声が、不動坂上へと続く山肌にこだまする。
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