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【神奈川のこと71】1998年(横浜市中区/横浜スタジアム)

石井琢朗、斎藤隆、鈴木尚典。

かつてのV戦士たちが、コーチとして、愛するベイスターズに戻ってきた。

よって、これを書く。

今夏、北海道の球団に属する選手が、突如、東京の球団に移籍するというニュースを見て、すっかり日本のプロ野球界に愛想が尽きた。

ベイスターズもびりっけつだし、もういいやという気分であった。

そんな折、飛び込んできたこのV戦士たちのコーチ復帰のニュース。

心が沸き立った。

「プレーするのは選手じゃん」と言われれば、その通りなのだが、抑えきれないほど期待に胸が膨らんでいるのだ。

なぜか?

それは、ほかならぬ「1998年」を経験しているからである。

平成10年(1998年)は、奇跡のような年であった。

いや、まさしく奇跡の年であった。

まず、松坂大輔を擁する横浜高校が、甲子園の春夏連覇を成し遂げた。

特に、夏の甲子園大会での、PL学園戦の死闘は、今更詳細を記すまでもないだろう。

あの日は、当時勤めていた会社の、新宿は副都心の一角にあるオフィスの会議室で、何人もの社員が、昼休みがとうに終わっているのに甲子園のTV中継にくぎ付けとなった。高校野球史に残る一戦。常盤選手のホームランは、今でも思い出すと胸が震える。

そして、翌日の明徳義塾戦での大逆転勝利が、何よりもあの年の横浜高校を「奇跡」のチームたらしめたと考える。「どうでしょう、う~ん、ミラクルですね~」なのだ。

時を同じくして、横浜ベイスターズも、奇跡のような快進撃を続けていた。

前年、大矢明彦監督の指揮の下で2位となった。そして、その翌年の1998年は、投手コーチであった権藤博が監督となり、「バントしない野球」でセ・リーグを席巻していた。

あの年は何度か、横浜スタジアムに足を運んだ。

忘れもしない、7月半ばの巨人戦。

3回過ぎにスタジアムに着いたら、すでに0-6で劣勢であった。先発斎藤隆が打たれていた。

しかし、その後、ベイスターズの「マシンガン打線」が巨人先発の桑田に襲いかかり、中盤に1点差まで詰め寄る。終盤7回、松井のバックスクリーンへのホームランでまた引き離されるも、その裏に近鉄バファローズから移籍してきた中根がレフト線にタイムリーを放つなどして追いつく。更に8回、高橋由伸の3ランホームランでまた突き放されて9-12となるも、その裏に佐伯のライトフライが打撃妨害かなんかで打ち直しとなったら、それがライトスタンドに飛び込む同点ホームランとなった。

9回裏、2番波留のサヨナラ安打で、13x-12の勝利。

奇跡のようなゲーム展開に我を忘れて、前の席にいた見知らぬベイスターズファンと抱き合った。

夜、フジテレビのプロ野球ニュースでは、豊田泰光が「長年プロ野球の世界にいるけど、こんな試合初めてだ」と言っていた。

I was there! であった。

その後もベイスターズは、快進撃を続けて見事、セ・リーグ優勝。西武ライオンズとの日本シリーズも制して、実に38年ぶりの日本一となった。

その奇跡の立役者の中心にいたのが、冒頭の3人である。

そして、あのチームには昭和45年(1970年)生まれの同い年の選手も多かったな~。石井琢朗、佐伯、谷繁、波留。だから思い入れも強かった。

尚、セ・リーグ優勝を決めた甲子園での阪神戦は、ドイツに出張していて、その瞬間を観ることはできなかった。

また、日本一を決める瞬間は、会社の同じ部署に入ってきた中途社員の歓迎会の幹事となっていた。新宿の居酒屋で、歓迎会の最中に、「ちょっと失礼」と言ってはお手洗いに行くそぶりで何度も席を立ち、隅っこにあった店内の公衆電話から、TVKの速報ダイヤルに電話をかけて途中経過を確認した。ちなみに、その中途社員は翌日、速達で辞表を送り付けてきた。虚しいとはこういうことを言う。

まあ、全てひっくるめて、いい経験だったと言えよう。

今夏、愛想を尽かした日本のプロ野球界であったが、昨日終了した日本シリーズの熱戦、Big Boss新庄が巻き起こすであろう新風、そして、我がベイスターズの新コーチ陣を目の当たりにして、一気に目が離せなくなった。

あれから23年の月日が流れた。

奇跡の2022年となるか。







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