【神奈川のこと20】天理ビルの苦くて甘い思い出(横浜駅西口)

この頃、「横浜駅西口が色々と変わってきている」と聞くことが多い。ただ、ここ一年以上降り立っていないので、自分の目では確かめていない。

それらのニュースに触れる度、反射的に「天理ビルはどうなっているのだろうか?」と考えてしまう。よって、このことを書く。

天理ビルは、昭和47年(1972年)、私が2歳の時に建った。母がよく「神奈川で一番高いビルよ」と興奮気味に言っていた。母の実家は浅間下なので、横浜駅西口から徒歩圏内にある。天理ビルが建てられた場所はまさしくその通り道にあり、母にとっては馴染みのある場所。なので、この「神奈川で一番高いビル」に対して、感慨深いものがあったかもしれないと今は思う。

幼い頃の天理ビルの印象はこうだ。

あれは、出張帰りの父を、新横浜駅か羽田空港に迎えに行く時に、首都高で横浜駅付近を通過した時だった。夜の暗闇の中から、「ぬぼーっ」と天理ビルが浮かび上がる。当時は周囲に高いビルなんてそれほど多くなかったので、天理ビルの大きさは抜きん出ていたはずだ。ビルのてっぺんには、赤いランプが点灯しており、なんかもうウルトラマンにでも出てきそうなSFチックさがあった。富士山を間近で見たときに感じる怖さと神々しさ、それに似た印象とでも申しましょうか。「怖い、けど見たい。」これが、幼い頃の私の天理ビルの印象である。

それから時が流れて、昭和56年(1981年)。西鎌倉小学校の5年生の時。当時、地元のLL教室で英語を習っていた。インターナショナルスクールに2年生までいたので、母が私に英語を忘れさせないようにと通わせていたのだ。自宅から徒歩5分ほどの場所にその教室はあった。

代表を務めるのは、私の親と同世代の松木先生という大江健三郎と養老孟司を足して二で割ったような風貌の優しいおじさん。その他に英語や算数を教える先生方が複数名いて、生徒の数も相当数いるにぎやかな教室であった。

そこで、英語のスピーチコンテストなるものが開催され、私がその教室の代表に選ばれて、神奈川県大会に出場することになったのだ。そこからは、英語担当の女性の先生とのマンツーマンでの特訓が始まった。先生と一緒に練習したスピーチ(と言っても物語を読むのだが)をカセットテープに吹き込む。すると、次のレッスンの時には、カナダ人かアメリカ人のその先生のご主人が、それにアドバイスを吹き込んでくれていて、それを元にまた先生と一緒に練習したり、自宅に持ち帰って練習するのだ。

本番当日。朝からものすご~く憂鬱であった。嫌でたまらなかった。学級会でクラスのみんなの前で話すのとは訳が違う。見知らぬ大勢の前でスピーチをするなど、絶対に嫌だった。特に5年生ぐらいからは、「そんなのカッコ悪い」という思春期の入口のような心持ちになっていたから余計そう思った。着たくもない上品なセーターを着せられたり、髪をなでつけられたりしたのも嫌だった。

会場は、天理ビルだった。

母の運転する車で天理ビルに向かった。首都高速で「着きたくない」横浜駅が近づいてきた。そこに、また「ぬぼーっ」と天理ビルが現れた。幼少の時に見た、SF的なとか、神々しいとか一切ない。太陽に照らされてそびえ立つ天理ビルは、無機質で、ただただ、今、最も行きたくない場所として、恐ろしさだけが際立っていた。ウルトラマンに出てくるダダのような怖さ。

会場に入る。スピーカーは20人か30人ぐらいいただろうか。私の順番は真ん中から少し後ぐらいだったと思う。さっさと終わらせたいのに、中途半端な順番に嫌気が差した。

いざ、会がスタートすると、出てくる人、出てくる人みんな凄いのだ。身振り手振りをまじえて、表情豊かに、抑揚をつけて見事に演じている。セリフのパートなんかはもう「劇団ひまわり」となっている。「俺にはあんな演技は絶対にできない。」顔がこわばる。「無表情で話し、さっさと終わらせるしかない」こぶしに力が入る。

とうとう順番が回ってきた。極度の緊張で、それこそ、手と足が一緒に出てしまうほどであった。壇上に立つと、300名ぐらいの視線が私に浴びせかけられる。「早く終わらせたい」と思いながら、暗唱した物語を話し始めた。無表情を決め込んで。当時の写真が一枚だけあるが、まるでロボットのような堅い表情をしている。

その時。会場の中に、代表の松木先生がいた。松木先生は、私のスピーチを、目を閉じて、時折うなずきながら、物語の情景を思い描くかのように聴いていた。それは、決して、私のスピーチの「粗さがし」をしているのではなく、自らの運営する教室の代表スピーカーを誇らしく思い、優しく応援する姿であった。

その松木先生の姿だけを見ながら話していると、不思議と少し落ち着いてきて、早く終わらせようという気持ちが失せて行った。と同時に「もっとちゃんとやっておけば良かった。こんなに真剣に聴いてくれているのに。」という後悔めいた気持ちにもなった。

会は終了。賞の類は一切獲れなかった。まあ、当然だ。帰りに参加賞のような形で、三角錐の袋に入ったチョコレートをもらった。帰りの車の中でそれを食べると、驚くほど美味しくて、「あまり食べ過ぎないように」という母の忠告も無視して、たくさん食べた。今でも、あのチョコレートの味は、記憶の奥底に眠っている。嫌で嫌でたまらなかったスピーチコンテストが、「それほど悪いもんじゃないじゃん」という印象に変わった。

あれから、30数年の時が経た平成15年(2013年)。私は地元の少年野球チームのコーチとなった。そこには、次男坊と同い年の選手で、松木先生のお孫さんがいた。彼らと共にがんばって野球に取り組み、鎌倉市で優勝することができた。松木先生に会えたら、一言、当時のお詫びとお礼を伝えたかったが、それは実現しないまま、次男坊も松木先生のお孫さんも卒団した。

今や、天理ビルの高さは、県内で80番目ぐらいらしい。でも、私にとってはいつまでも大きな存在である。













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