【神奈川のこと27】センポ・スギハラ(鎌倉市津)

先日、神奈川新聞に杉原千畝の記事が出ていたので、これを書く。

自宅の本棚に一冊の本がある。「六千人の命のビザ 」。裏表紙の内側に「杉原幸子 平成2年12月」とサインが記してある。

昭和15年(1940年)、リトアニア領事を務めていた杉原千畝(スギハラチウネ)。ナチスドイツの迫害から逃れるため、ポーランドからやってきたユダヤ人に、日本を通過できるビザを交付して、多くのユダヤ人の命を救った方である。ビザ発給許可を日本の外務省に打電するも、答えは「否」。それでも、独断で交付した。

杉原幸子さんは、その奥様である。

杉原家は、近所にあった。ルーマニアで第二次大戦の終わりを迎え、敗戦国の外交官として大変な思いをして昭和22年(1947年)に帰国してからは、ずっと鵠沼に居を構えていたが、1980年代に西鎌倉に引っ越して晩年を過ごした。

昭和60年(1985年)、私が中学校3年生ぐらいの時に亡くなっている。私は覚えていないが、母は、家の前をハットを被って歩く杉原千畝の姿をよく目にしていたようだ。

平成2年(1990年)に、奥様の杉原幸子さんが「六千人の命のビザ」を著し、テレビでもこのことが取り上げられ、世間の耳目を集めた。冒頭に記した直筆のサイン入りの本は、ご近所ということでか、または、母が杉原さんの活動を手伝っていたかのよしみでいただいたものだ。

先の大戦中に、いくら善い行いをしたからと言って、敗戦国民である日本人で、尊敬を集められる人物はなかなかいないだろう。しかし、杉原千畝は文句なしに、尊敬に値すると言っていいはずである。

「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは正しい行動だった....。私の行為は歴史が審判してくれるだろう。」(六千人の命のビザより)

あらためて本を読み返してみた。そこには、1940年代のヨーロッパの地で、日本の外交官としての任務を遂行し、一家の主人として家族を守りながらも、一人の人間として、なすべきことをなした人物、杉原千畝の情熱と気品、そして知恵が描かれている。と同時に、登場するヨーロッパの人々が国籍に関係なく、皆、人間としての尊厳を持ち、平和を求めていたこともよく分かる。そして、奥様の杉原幸子さんが巻き込まれたドイツ軍とパルチザンの戦闘場面には息をのみ、感動を覚える。

秋の西日が、自宅前の坂道を黄金色に照らす。かつて、ハットを被って歩く杉原千畝の長い影が、そこにあった。





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