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焼きそば屋さんで、中華そばを食べたこと

駅近くの焼きそば屋さんは、焼きそばだけでなく、中華そば、ぎょうざ、焼き飯などもメニューに載っていて、人気がある。いつも、サラリーマンや学生、観光客で満員である。子連れの客がいたから、日曜日のことである。

わたしはこのところ冷静である。
などど書くのも、慢性の疲労感が空腹と重なって、不機嫌になることが多かったからだ。空腹は、眠っている怒りをいとも簡単に起こてしまう。怒りなどどいうと、立派だけど、イライラのことだ。いつ無くなってもいいような些細なもの。

その時は冷静だったのである。
数あるテーブルは全部埋まっているので、カウンターに座った。
わたしは、『肌ざわり』を出して読む。文庫本である。赤瀬川氏の本の底に流れている精密さ、丁寧さが面白いし、気に入っている。大仕掛けを丁寧に解説しているトマソンも、尽きることのない超芸術を日常から発見するだろう。作品のタイトルだって、見事な着地点に落ち着いていて、いつも、心が解けている。

右手にはおばあさん、左側には、2人の小学生を連れたお母さんがいる。
「ギョウザと中華そばと・・・」
と母親が注文している。わたしも遅れないようにと、すかさず注文する。

「すいません、中華そばください!」

暫くして、
「はい、ぎょうざね。」
小さな暖簾越しに、皿が差し出される。子供たちは、早速、スクラムを組み
がっちり連帯したギョウザを剝がしにかかる。日曜日には、小さなカウンターの上でも。家族団欒が始まるのだ。
「は~い、チャーハンね。」
子供たちのカウンターに、皿がもうひとつ加わる。右手のおばあさんはそれを見て、
「中華そばはまだ出来ないの!」
と、椅子から立ち上がって、店員に不満をもらす。
「もう、出来上がってますから」
と。中から返事があり、ほとんど帰る勢いだったおばあさんは、手に持った傘を下ろす。

おばあさんは、間もなく差し出された中華そばを食べ始めている。

わたしは、また『肌ざわり』の続きを読む。

10分ほど経って、店員がもう少しお待ちくださいと告げに来る。一瞬、時間が凍り付くような感じが胸の底にあるが、「どうぞ、何分でも待ちますよ」と、無駄な感情を押しとどめている傍らで、〈冷静さ〉の文字が頭の中で踊っている。

隣を見る。おばあさんの丼はすっかり空になっている。干上がったダム、飴色の海は胃袋に収まってしまったのだ。満腹になって、おばあさんは機嫌よく入口で代金を支払う。

暫くすると、わたしも、おばあさんと同じ色の褐色の液体に満たされるだろう。胃の空洞である壁は温かくなって、刻みネギで装飾されるだろう。存在を主張していた麺とか、赤巻きとか、固有の形が咀嚼によってさまざまに変化するだろう。そして、何人もの客によって、中華そばは鍋を移動し、町に分散するのだ。

中華そばの解体がもうすぐ始まる。


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