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らもについて

子供たちが、らもを散歩に連れ出す。らもは、私のほうを見ていて、なかなか、子供たちと歩調をあわせない、道路に臥せってしまう。それで、河原への散歩を省略して、家の前の広場へいくことにする。

毎日は、そうして、いつも省略される。省略して削り取った部分が次から次へと増えて、毎日の新聞紙のように、実は、積み重なっている。気になっているうちは、一日からはみでた部分を回収しなくてはいけない。

気持ちがはみ出る。やり残しが、一日から、はみ出る。それをそっとかき集めて、頭の隅に溜めておく。冷蔵庫の食べ残しだって、いずれは食べるか、捨てるかのどっちだ。やり残しだって、長い間放っておくと、最初は何だったのか、その履歴もわからなくなってしまうだろう。はみだしたから、切り取ってしまえば、それはそれで、最良の一日になる。ただ、あちこちに匙を投げられたやり残しが、随分と積み上げられていて、もう、山のようになっている。

つい、この間の朝のこと。らもに食事を与える。いつものように、「待て」をさせる。らもは行儀よくお座りをしている。らもは、ステンレスの皿に視線を集中している。しっぽは、右へ左へと静かに揺れている。今朝のらもは、機嫌よくて礼儀正しい。かわいくて、おかしいらも。
一昨日、近くで工事が始まって酷い騒音なので、らもを裏に繫いでおくことにする。
秋になると、9時過ぎには、裏庭の陽がかぎってくる。陽を追って、蔵の近くにらもを繋ぎなおす。裏庭には誰もいないので、寂しそうだ。時々、「く~ん、く~ん」と泣くので、台所の窓から「ここにいるよ」と声をかける。らもは、台所のほうに顔を向け〈ねんね〉をして、静かに横たわっている。

すれ違う犬と人間、咀嚼を簡略化するいぬ、頑丈な消化器、あっという間に飲み込む習性を持つ・・などと犬の本には書かれているけれど、その相違を埋めるためには、愛情が必要である。かといって、愛情だけでは、犬との連帯生活は無理があるので、しつけとか訓練とか、犬との遊びなどが欠かせない条件になっている。この、どうすることもできない〈差〉、あるいは、どうすることもできない〈関係〉があるところに、理想が生えてくる。

理想は畑のキャベツのように、生えてくる。理想って、いきなり生えてくるのだ。犬を、決して失望させたくはないから、理想は、いきなり堂々と生えてくる。そして、理想は、いつまでたっても理想のままである。犬との理想的な散歩、理想的な犬の食事、理想的な犬との対話・・・
理想は、いつも、犬に向かって溌溂としている。
まるで、午前8時、9時の太陽のように、新鮮なままだ。


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