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チーズと頭痛について、ジーン・カーパー氏は

チーズは、頭痛と親戚関係にあると、ジーン・カーパー氏は書物の中で言っている。そして、ワインもまた、頭痛を引き起こすと記述している。チーズもワインも、しばしば、冷蔵庫の隅っこで、静かに出番を待っている。チーズは時として、頭痛に変貌するということだから、その出番というのは、頭痛の出番だったということになる。

頭痛は食べることができる。そして飲むことさえできるというわけだ。食べること、この繰り返される要求は快楽の源泉だけど、ひそかに痛みを抱えている。「快楽と痛み」はエッシャーの「地と図」の反転模様のように、日常の平面を均等に分割する。快楽は痛みの原材料であり、痛みもまた快楽の原材料である。なぜなら、快楽が痛みの輪郭線を明瞭にするからだ。なぜなら、痛みが快楽のカンヴァスに糊付けされた紙にデッサンするからだ。

快楽と痛みの関係は、きわめて民主的である。
民主的なのは芝生だけとは限らない。

痛みが快楽を干渉している。
快楽はいつも痛みを挑発する。

快楽と痛みは、それぞれの境界線を共有している。


※ 健康本しか読めなかった頃は、友人からは「夢がないな~」と言われていた。そのころ、書いたものを、大幅に削ってみた。まるで、彫塑をしている気分だ。あるいは、花瓶に投げ込み過ぎた花を、一本、一本抜いているようだ。花の場合は、大抵はよくなるんだけれども、時間がかかり過ぎると、花瓶の中で花は倒れ、枝葉が絡み、手に負えなくなって、花瓶だけが残るということになる。でも、書かれたものの場合の容器って何だろう。詩の容器って何だろうと考えていると、定型詩かなと思う。

眼が悪いわたしは、メガネをなくすことは世界を失うことと同じなので、メガネが手放せない。メガネがない時、世界は限りなく縮小され、形も色も省略される。こんな時は、石原吉郎さんの〈失うことは獲得すること〉という言葉が思い出される。そうすると、私は、省略された形と、あいまいな輪郭線、そして、緩やかにせめぎ合う色彩を手に入れたことになる。

メガネなしに自分の顔を描いてみる。そんな時、〈省略は、創作の基本形〉だと、たびたび実感する。




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