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触れ方一つで人生が変わる《1》〜人嫌いの千鶴が人を好きになるまで〜前半

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自分の未熟さを人のせいにして言い訳したっていい

怖いなら逃げ出したっていい

ただ、そこに伝えたいのに伝える事ができなかった自分の想いがあった事だけは忘れてはいけない

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こんにちは、千鶴です🦢✨

触れ方一つで人生が変わる《1》〜人嫌いの千鶴が人を好きになるまで〜の前半です❣️

《伝え方の導入》
《私の過去について》となっております。

長くなりますが最後までご覧頂けたら嬉しいです。


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私はこれまで何度も失敗をしてきた

その"失敗"とは【伝え方】だ


講習を繰り返しながらも《触れ方》を上手く伝える事が出来なかったのは何故だろう?と私なりに考えてみた

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どんな技にも手技や動きなど目で見て取れる【技術面】と人それぞれが経験で養ってきた目で見ることはできない【技能面】とがある

(目に見えるもの)と(目には見えないもの)

当然ながら伝え方も異なり、指圧に例えるとこんな感じ↓

【技術の伝え方】『手を置いて指が1〜2cm沈むくらいに押します』

【技能の伝え方】『手を置いて受け手の筋肉の反応を捉えてみよう。分からなかったら繰り返し自分の身体で体感してみよう!』

技の継承においての【技術面】とは目で見える形を伝え覚えてもらう事であり【技能面】とは目には見えないその人独自の受け取り方をヒアリングし自分だけの感覚を知ってもらう事で

【技術面】と【技能面】この2つがどちらも磨かれる事でようやく技の継承が成立する事になるのだと私は思う。



そして…

《0》にも書いている通り、《触れられ方》も《触れ方》の一種だと考えている私は生きてきた環境=触れられてきた感覚を共有しない限り《触れ方》を共有する事は難しいと判断した。


これが《触れ方一つで人生が変わる》とタイトル付けた理由の一つでもある🌿


同じく《0》の記事に書いた

『私には人が怖かった時期がある』

それは13、4歳の頃の話になるのですが

今回は幼少期〜順を追ってご覧ください🌱


毎日泣いて登園していた幼稚園

私は年中さんからの入園だったので5歳くらいかな?

毎朝迎えにくるバスと毎朝泣きじゃくって乗らない私

そして毎朝車で送ってくれた母


何が怖くて泣いていたのかはっきりとは覚えていないんだけど、とにかく行くのが嫌で毎日それはそれは泣きじゃくっていました。

授業が始まりさえすれば楽しくて振り返っても嫌な思い出が浮かばないので、母と離れるのが怖かったのかな?


そんな泣き虫な私がある時を境に幼稚園に行くのが楽しくなった

今でもはっきりと覚えている…

《好きな子と友達になった日》


いつも笑顔で優しくて、集合写真の並び順で隣だったその子が大好きで

私は仲良くなりたくて…いや、きっと仲良くなっているのか確認をしたくて、緊張しながら勇気を振り絞り声を掛けた

『友達になって…?』と

その子は『いいよ😊』とすぐに返答してくれて

なんだかホッとする気持ちでその時先生がシャッターを切るタイミングでちょっとその子に近寄ったのを覚えている

20年経った今でも仲良くしてくれている私の親友

これは余談ですが、美嬢百花設立当初素材撮りのモデルをやってくれたのも彼女です(ピンクのコートが親友で黒いのが千鶴)

note ノート 記事見出し画像 アイキャッチのコピー-3

彼女は私の人生の中でとても大きな存在で、彼女がいなければ女性が女性を大切にするという概念でレズビアンエステ美嬢百花をつくる事も無かったのではないか?とさえ思うほど…



さて。話を戻そう

祖母のそばで育った幼少期

私は年長になる頃には幼稚園の帰りに毎日祖母の家へ通い始めるようになった

その頃母が体調を崩していたのもあって朝は実家からバスに乗り、帰りはバスで祖母の家で降りると言う生活サイクルだった


やがて小学生になれば自分で勝手に祖母の家へ帰宅する様にもなり、週末は良く祖母の家へ遊びに行っていた気がする


犬達と鬼ごっこしたり、虫を捕まえたり、草や花でお花屋さんごっこをしてみたり外で遊ぶのが大好きな子供時代🐞🌷🐕

父方の家は家族経営をしているので祖母の家=会社でもある

好奇心いっぱいな私は庭だけで無く事務所・駐車場・作業場などその全てを遊び場にしていた👧


でも草花と違って事務所の物で勝手に遊ぶと怒られてしまうので子供の頃オモチャの代わりに私が欲しがったのは"領収書"とか"茶封筒"とか"ゴム印"🤖笑


もっと興味があったのは重機🧲やトレーラーで

何トンもの物体を動かす祖父と父の姿がカッコよくて憧れで、ワガママを言っていつも間近で見学させて貰っていたのを覚えている


祖父は嬉しそうに私を作業場に連れ込んで仕事姿を見せてくれたのだが、それを祖母が『危ないでしょう!』と注意していた笑


今思い返せばその後祖母が裁縫、料理、茶道、花道など室内遊びをあんなにも沢山教えてくれたのは私のバランスを考えての事でもあったのかな?なんて思ったりする🤔💭


心配性な祖母👵の事だからきっとそうだ


私が早く重機に乗れるようになりたいな〜❣️なんて思ってた頃

『女の子には危ないから自分で重機に乗るなら継がせれないね👵』

そんな感じの事を祖母に言われた記憶もある


何にせよ幼少期の私は祖母と過ごす時間がとても長く本当に沢山の事を教えてもらってきたので祖母は私のルーツみたいなものかな🌱


"好き"を素直に表現しては馴染めない(?)


そんなこんなで真っ直ぐ好奇心を持つ事を自分の中で良しとしてきた私は好きな子ができるとすぐに好きだと伝え、人の意見に合わせずに"好きなものは好き!"を貫いてしまうので

小学5年生の頃かな?度々場をシーンとシラけさせる事があった

(何か間違っているなあ…多分…でも分からないな…)とよく感じていて

当時学校で流行っていた手相一覧表に【KY線】なるものがありクラスの子達と見比べ時私だけバッチリあったものだから

(私は空気が読めない人なんだな〜)と認識する様になっていった🤲


当時は孤独感もあり

なんとか周りの子に合わせようとして悪口を言ってる子がいれば一緒になって悪口を言ってみたりもした

好きを共有してみんなと仲良くなりたいのに嫌いを共有しないと仲良くできない事が当時は苦しかったが、1人になるのが怖くて人を傷つける言葉を言うなど愚かな行為だと今は思う

丁度その頃両親の仲が良好では無く、家に帰るのがとても嫌だった💣

当時の私は学校に居場所が無くなったらどうしよう…と必死だった


遂に人が怖くなって逃げ出す…


周りとのコミュニケーションがうまく取れないまま中学生になった私

担任の先生が嫌いだった私


当時の担任の先生は子供の様な人だった

今彼と話せばきっと尊重する事はできるのだろうけど、当時の私は生徒に対して承認を求め、態度を人によって変える先生の言う事を聞かなければいけないのが気に食わなくて、言葉一つ一つに反抗し、わざと怒らせる様な態度を取っていた気がする

担任の先生だけではなく多くの人に迷惑をかけていたと思う

この段階でスクールカウンセラーのカウンセリングを当時の私に受けさせる事ができていたらどうだったかな?と考えた方がある🤔

…と言うのも、この数ヶ月後に私は些細な友人トラブルがきっかけで一切学校に行かなくなってしまったからだ


中学生相手にカウンセリングを素直に受けさせるなんてきっと至難の業だし私はこの当時の経験がなければ今セラピストをして居ないと思うので結果的には良かった◎と思っている。

確か通っていた中学校ではスクールカウンセラーのボランティアを導入し始めた頃で

大人に対して歩みよる事もかなり勉強が必要なのに、扱いの難しいであろう時期の子供に対して歩み寄っていく事は相当な勉強が必要だと思う

よほどの覚悟が無い限り決してボランティアでできる様な事ではないと言うのは簡単に想像できることだ

市立中学校だったので教員以外の人間を自由に生徒と関わらせることなんてこともそう簡単にはできなかっただろう



そんな中誰よりも味方をしてくれたのはやはり親友だった

忘れられない言葉がある

私が授業中先生と口論になって教室を飛び出した時真っ先に親友が外まで走って追いかけ手を掴み引き留め

『千鶴が辛い時は一緒に泣くから!!😭』と大声で泣きながら言った


私は驚いた


誰が見たって迷惑な行為だったのに怒る訳でもなく私が"辛い状況にある"のだと察して一緒に泣いてくれた親友

親友のその言葉のおかげでようやく私は【辛い】のだと自覚する事ができてその場で大泣きしたのを覚えている。


だが、そんな気づきをくれた親友とは喧嘩もして沢山傷つけてしまった。

人とコミュニケーションをとることはなんて大変なことなんだと絶望し

いっその事、関わらない方が楽だと思ったのかコミュニケーションの取り方が一切分からなくなった私は喧嘩が終わった頃には心を塞ぎ始めた

同じ部活の子達がとても気にかけてくれていたがそれすらも怖く感じ全ての思いやりを拒絶していた


それほど親友に嫌われる事はとても恐ろしかったのか

私は逃げるように学校へは行かなくなった


学校側は私が不登校になり始めてからようやくスクールカウンセラーを付けようと試みたようで何度か先生から電話がきたのだけど、それらを当時の私が受け入れることはなかった

そこから私の人嫌い克服生活が始まる…🌱




と、ここまでが

触れ方一つで人生が変わる《1》
〜人嫌いだった私が人を好きになるまで〜前半

です😊🌸

後半ではどのようにして私が人嫌いを克服していったのかについて書いていきます。

最後までご覧頂きましてありがとうございます💐


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千鶴

セラピスト暦4年

21歳の時に独立
🔻
男性社長ばかりの中で1人女性社長として商売をすることによる苦労や楽しみを学ぶ。

壁を一つ一つ乗り越えていく度にやがて

『女性としての強さをこんなにも愛することができる私自身は女性の社会進出のサポートに回るべきだ!』

そんな気持ちが強まる
🔻
まずは
自分自身を肯定し、ホッと安心できる場所をもつ事で"活力がみなぎる"ということを知って欲しいという考えで

〜都心に女性の為のセーフスペースを〜

を元に2020年

女性セラピストによる女性の為のハグルーム
レズビアンエステ美嬢百花 @bijyouhyakka
を設立

🔻

昨年2021年11月に
【全世代の女性の雇用を生み出す】
の想いで法人格化

【法人理念】女性の社会進出のサポート
【個人信念】自分自身を肯定し、安心できる場所をもつ事で人は活力がみなぎる


セラピストとしてだけでなく色んな形で女性のサポーターとなる取り組みに力を入れています

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