無と浄化
浄化と言うのだろうか。
自分の目の前にあるものにフォーカスし過ぎて忙しすぎる時、ふと命の存在を振られると、我に帰る瞬間がある。それは新しい命の誕生だったり、すでにあった命の終わりだったり。
自分の今ある場所で、自分の大事にしているものが全く意味を持たないような感じになってしまう瞬間がある。その時にその感情が全くの無になる瞬間、「浄化された」と感じる。
浄化という定義と、私の感覚が果たして合っているのかわからないけれど、その無のようなものに、ただ祈る。
一年前、私の近い人たちのご家族がこの世を去った。それも何人も。
私達の今生きているところが、そこへと通じているのなら、このままでいい。もし通じている確信がないのなら、それはきっと自分が今あるべき場所にいないのだろう。
そのことを受け入れがたく感じる瞬間もある。大切にしていたものが、ふと再起不能な状態になった時、何かのせいにできる訳ではなく、「形あるものは壊れる」という自然の摂理に沿って起こった出来事だとわかっているのに、ゆるせない気分になる。そのものが自分の人生と共に永遠にあるわけではないということを受け入れ難い。花や植物もそう。生きているものの死は、この何十倍も何百倍も受け入れ難い。
その気持ちに諦めのような感情=心への蟠りが消えた時、浄化されたと感じる。成仏という言葉は仏教語だけれど、浄化というかわりに成仏というその言葉を使っしまっていいのだろうか。
見方によって、受け入れ方は、きっと人それぞれなんだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?