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体は自分だけの神殿

その昔、ずーっと昔。まだ小学校に入る前、わたしは爪を噛む子どもだった。検査でお尻から出てきてはいけないものが出てきて、両親は必死に爪噛みをやめさせようとした。

爪を噛むことなんて、やめられないとわたしは思っていた。

両親は「爪を噛む子は病院に連れていかれるよ。牢屋に入れられて、出てこられなくなるんだよ」と言い続けていた。

ある日、両親は私を車に乗せて「病院」と呼ばれる場所に連れて行った。山の奥に見える、読めない漢字が書かれた病院の看板を指さして、「あそこに行くんだよ!」と言われた。怖くて泣いた。それから爪は噛まなくなった。

あの頃から想像できないほど、わたしは大きくなった。病院だと説明された建物は病院ではなかったらしいことも後になって知ったけど、今でもその場所に行くと病院を探してしまう。

そこにわたしを閉じ込める病院はなかったと知っても、爪を噛むと病院に行かなければいけなくなるという考えだけは思っている。だから爪は噛まない。


だけど、爪の横側は別。ささくれをめくって血が出て、血が出たところをめくって、血が出ていないのに気になって皮をひっぱって、血が出て。よくやってしまう。だから指先は常にぼろぼろだ。

友達に手を見せると、爪の形のことや手の大きさのことはよく言及される。だけどぼろぼろの指先については、何も言われない。全く言われないわけではないけど、ほとんど。


パリに留学していたとき、教会で働いている職員にナンパされた。デートに誘われたのでついていった。

全く面白くなかったから次回はなかったし、ごはんも食べなかったし、お茶も行かなかった。公園や地下鉄の中で、話をしただけだった。その人が唯一言った面白いことが、わたしの指先についてだった。

指先を自分でめくって傷つけることは、ストレスからくる自傷行為だという。だから気づいた時点で必ずやめなければいけないし、ストレスを貯めないようにするべきだと。

心は自分にとっての神様であり、髪の毛の先からつま先までは神様をいれるための神殿。だから、傷つけてはいけないのだと。

考えてみればたしかに、指先をぼろぼろにしてく行為は自傷行為だと思う。爪を噛むことも、たぶん同じだ。

自傷行為というとリストカットを思い浮かべる。わたしはリストカットこそしなかったけど、自傷行為を繰り返していた時期がある。社会問題になるような行為だけを自傷行為だと特別視していたけど、指先の皮をめくる行為も自傷行為だったとは気が付かなかった。


それからしばらくは意識してささくれをめくらないようにしていた。

最近、また指先がぼろぼろなことに気が付いた。わたしはめくらないことをやめていたんじゃない。やめるのを忘れていた。

久々に会う友達とご飯に行ったとき、テーブルの下でささくれをめくっていた。別の友達と劇場に行き、座席に座って話すときもささくれをめくっていた。

ふと「体は自分だけの神殿」と言っていた、全然面白くないデートの相手の言葉を思いだした。わたしは自分で自分の神殿を傷つけている。

指先にワセリンを塗りこんだ。

日中、お仕事をするためにパソコンに向かっている。キーボードを打つ指はぼろぼろ。手元にはワセリンを置いている。集中力が切れたら小瓶を手に取り、かさかさの指先に塗り込む。

数日こんなことを繰り返して指を油まみれにしてきたから、自分だけの神殿は着々と修復が進んでいることがわかる。

すこしずつ、すこしずつ。おやすみなさい。