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読書メモ「武器としての書く技術」イケダハヤト著

イケダハヤトさんの『武器としての書く技術』を読みました。

以前から読もうか迷って読まなかった本でした。なぜいまこの本を手に取ったのかというと、ちょうど書くことや発信について悩んでいたからです。

インプットもアウトプットもうまくできていない自分に、悩みませんか。わたしは悩むんですよ。

本は10人10通りの読み方があるのだから、読んだら感想を共有しよう、 という意味のことが書かれていたので、共有します。

価値のない本の続きを読まない勇気

知識レベルが高くなると「あらためて読む価値のない本」もあるはずです。 本の価値というものは絶対的なものではなく、相対的なものだともいえます。今の自分には読む価値がないと判断した本については、積ん読としてストックしておくか、売却・譲渡してしまいましょう。

イケダハヤト「武器としての書く技術」No.1171

あ、確かにそうかもしれない、と思いました。

わかるようになってから読むと、そうそうこれが知りたかった! っていうものもありますし、いやいやこんなことが知りたいんじゃなかった! っていう本もあります。

レビューを読んでもひとによって価値が違うので、価値は手に取ってみなければわからないところです。

買ったから読まねば! 借りたから読まねば! と思いがちですが、そこを「今の自分には価値がない」と言い切る勇気を持たねば。

自分を癒すための言葉に救われる人もいる

理不尽な経験をしたとき、自分の中で答えを模索し、納得できる回答を見つけられると、不思議と気分がすっきりします。見えない怒りを言語化することで、自分のなかから逃がすのです。

イケダハヤト「武器としての書く技術」No.1985

これも共感でした。
もやっとしたときは誰かに話すことですっきりします。もやもやを話すとき、いかに自分がおかしくないかを説明しますよね。それをウェブ上でやってしまう、ということ。

怒りを言語化した記事が癒しになる人がいるというのも、たしかにそうです。怒りさえも、コンテンツなのですよね。

怒り悲しみ、喜びもそうです、感情は強いです。自分の感情を動かす出来事をもとにうまれた作品には、熱を感じます。文章も同じだということ。

湾曲表現にも価値はある(とわたしは思う)

ブログで婉曲的な語法を使う人たちは、単に自分を守ろうとしているだけです。「和をもって尊しとなす」のは、「みんなのためを思って」ではなく「自分が叩かれたくないから」です。そこに気づかねばなりません。

イケダハヤト「武器としての書く技術」No.2047

わたしは湾曲表現にも価値があると思っているので、これは賛同できません。読み手のことも気にして書いている文章でも、素敵なものにたくさん出会いました。そういう書き方に救われたこともあるので、ここは譲れません。

とはいえ、イケダハヤトさんのような煽りキャラであれば刺激的な言葉を求めている人に刺さればいいのだし、住み分けです。わたしはこうではない、というだけです。

……というこれも、まわりを気にしすぎている、ということですよね。自分や他人を守ることを選んだがために、切れ味の高い表現を避けて刺さらないということを、自分からすすんで体現してしまっているわけで。

いいです。

本を読んですべてを真似することなんてできないので、自分の欲しい部分だけいただいて真似します。おやすみなさい。

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