生涯をかけて競技スポーツに取り組むことの価値 - エンデューロ日記 No.31
ガラパゴス化していたアメリカのエンデューロが変わったのはいつからだったのか、そのきっかけとなったのは何だったか。スポーツマンシップと伝統を重んじるアメリカのモータースポーツ愛好家たちが、6日間競技への取り組みを通じて教えること。
少し前のことになるが、AMA(アメリカモーターサイクリスト協会)は、2016年の「モーターサイクリスト・オブ・ザ・イヤー」に、ISDEに参加したアメリカ代表チーム=ISDE U.S. WORLD TROPHY TEAMの4名を選出した。ISDEとは、FIMインターナショナルシックスデイズエンデューロのこと。1913年に第一回大会が開催されてから、二度の世界大戦による中止を経てはいるが、それ以外は毎年、世界各国の持ち回りで開催が続けられている、モーターサイクリストのオリンピックとも形容される6日間競技だ。100年以上の歴史がある大会だが、US代表チームが優勝、ワールドトロフィを獲得するのは、史上初。AMAの代表であり最高経営責任者でもあるロブ・ディングマンはこうコメントする。
「4名が成し遂げた事は歴史に残るものだ。これまでに何世代ものAMAメンバーたちがISDEのワールトロフィを追いかけて来たが、ついにこの若者たちが夢を現実にした。2016年のモーターサイクリスト・オブ・ザ・イヤーにこの4名を選出できたことは、私たちにとって大きな誇りだ」。
アメリカのオフロードレジェンド、マルコム・スミス、またスティーブ・マックイーンが出場していた大会でもあり、アメリカのモーターサイクリストの間で、ISDEは決して知名度の無いイベントではない。アマチュアが参加できるクラブチームクラスへの参加希望者も多く、参加資格を得るための予選会、ISDEクォリファイという2日間競技も毎年3回実施されている。そこで上位に入らないと、ISDEへの参加はかなわないのだ。
もちろん国代表チームの参加も続けられてきた。マルコム・スミスを筆頭に、ISDEマスターのような人たちも存在する。なかでも、ランディ・ホーキンスは最も熱心に取り組んで来た一人だ。実に、18回出場。11回はワールドトロフィチームとして、5回はジュニアトロフィチーム(23歳以下の代表)として参加。そして15回完走。うち13回はゴールドメダルという成績だ。だが、彼がISDEに取り組んでいる時期、AMAは決してISDEでの勝利に関心を持っているわけではなかった。USトロフィチームは玉石混交で、とても欧州列強と戦える顔ぶれとは言えなかった。後年、ホーキンスは次のように話している。「AMAは国内選手権の日程をISDEにかぶせるようなことを平気でやっていた。ぼくはタイトルがかかっているシーズンであるにも関わらず、国内選手権を捨ててISDEに行くことすらあったんです」。
アメリカにワールドトロフィを、という活動が本格化するのは、2003年のカート・キャッセリ登場からだ。
父、リッチ・キャッセリの指導の下、ISDEへの参加を開始したカリフォルニア州パームデール出身の若者が、以降、US代表チームのリーダー的存在になっていく。キャッセリ父子の情熱は次第に周囲を巻き込み、アメリカ代表、USトロフィチームは競争力を身に着けていく。カギのひとつは、ライダーの選出方法だ。もとより、アメリカのオフロードレーシングはレベルも高いし層も厚い。だが、エンデューロに限っては、ドメスティックかつガラパゴス化していて、簡単に言うとコース設定が低速で、競技時間も短か過ぎた。そこで勝てるライダーも、ISDEやエンデューロ世界選手権のスピードレンジになるとまったく通用しない。もっと広く、モトクロス、スーパークロス、クロスカントリーレーシングからも実力のあるライダーが集まらなければならない。カート・キャッセリ自身も、スピードレンジが高い西海岸のクロスカントリーレーシングの出身だ。
キャッセリらは、地道にISDE参戦を続けて可能性を示し、取り組みの輪を広げていった。代表ライダーの選考方法も変わり、予選結果に限らず、いろいろなカテゴリーから有望なライダーを任意に選出できる仕組みが作られた。
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