私が太りすぎたのかあなたの心が痩せすぎたのか


仕事を早く切り上げケンタッキーのバーレルを買って帰り、温かいうちにとカーネルの最高傑作を食い散らかした上で、妻が用意してくれていた夕食も残らず食べ終わったところ。妻から「太りすぎて醜くて恥ずかしい」と言われてしまいました。「食べてるところを見ると犬食いでみっともない」とも言われました。太っているは当てはまりますし、犬食いも身に覚えがあります。

「いくら太ってても好き」「いっぱい食べてくれるから嬉しい」と言ってくれていた日々が懐かしいです。いまは昔、数年前の話。

眠っている娘(生後1ヶ月)に「ママンにいじめられたよ〜泣」と顔をよせたところ、眠りを邪魔するなと両の手で払いのけられてしまいました。

居場所が少しずつ失っていくような
そんな気分になっています。

ここで私の感情に触れましょう。
心象風景なシンプルに悲しいです。
怒りはありません。啓蒙はできませんから。

妻は「友人にあなたの写真を久しぶりに見せると太ったねと言われる。」「初めて見せた人には優しそうだねと言われるけどこれは太ってて褒めるところないから言ってるんだよ。」と畳みかけてきます。

当然反論もします。
「そんな周りの評価なんか気にするなよ。太ってたってそれを補い余る魅力が俺にはあるだろう。君は俺に幻滅しているかもしれないが第三者から見れば本当に幻滅に値するのは俺が君に、かもしれないよ」
怒りはありません。

と言うものの、
「だって鏡見てみ。首ないじゃん」
と畳みかける。

「結構、非道いこと言ってない?」と私
「だって醜いもん。痩せなよ。」と妻

ここで私の感情を一つ。
心象風景はシンプルに切ない。

少し痩せたいなとは思うけれど、太っていることは悪いことだとは全く思っていない。残さず綺麗に食べるし「いただきます」「ご馳走さまでした」を欠かさないし、大盛りにするし、おかわりもしてぷくぷく太るけど悪いことだとは思わない。

しかしそれを面と向かって真正面から醜いと一刀両断されてしまうと私の分厚い脂肪でも血が出てしまうようだ。

「一緒に歩きたくないってこの子に言われちゃうよ」「絶対早死にするじゃん。犬死にするじゃん。」と畳みかける。

「早死にはしても犬死にはしないよ」
となんとか返す。

ここで私の感情を一つ。
心象風景は、べらぼうな鬱憤だ!
これは鬱憤だ。ここまでくると鬱憤だ!
もういいよね?積算した怒りで鬱憤!
この文章を書き殴るドライブ感は鬱憤よ!

鬱憤をここに。
どうなんだろう。太っていることを醜いと思ってしまうその了見は。醜くないだろうか。醜いだろうな。人間を外見で判断するというのは明らかに早計であり未発達な感性だと強く思う。人間という知的生物でありながら肥満に対する侮蔑的な言葉でしか人を評価できないその知能は、些か動物的ではないか。私の身体は確かに肥満だが、あなたの感性は明らかに貧相だ。

とここまで書いたが翻って考えてみる。
休みの日に我が娘と1日一緒にいて思ったこと。それは"旦那いらねぇわ"ということ。私が母親フィーリングになってしまうくらい母性が芽生える我が子という存在。子どもを愛するということは異物を除去したくなるということだ。デブな夫を排除したくなるのはわからなくもない。この子は私が育てる!他者の育児法など聞かない!太った醜い旦那なんかもっといらない!みたいな気分になるのが母親なのかもしれない。

ただ、あなたが肥満を侮辱するとき、肥満は悲しみに暮れ、鬱憤を溜め、また暴飲暴食してしまう。ということを忘れないで欲しい。

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