エッセイ541.コミック「蝉法師」by 墨佳遼
朝日新聞土曜日の書評欄は、今の書店のコミックの量に圧倒され、選べないでいる私にとって、格好の良コミックの案内所です。これで惹かれて読んだコミックで外れることはほぼありません。
この「蝉法師ー訳アリ坊主三人衆、嫁探しの珍道中」もその一冊。
誰彼なく心から勧めたくなる傑作です。
サブタイトルからすると、弥次喜多道中みたいなコメディかなと思いそうになりますが、そうではありません。読後、私はしばらくコミックは読めない、読みたくないと思ってしまうほど、いい意味でガツンと喰らわされました。
この墨佳遼さんという漫画家は、デビュー作が「人馬」全6巻ということで、こちらは人馬ーギリシャ神話で言うとケンタウロスですが、この種族を主人公とする堂々6巻の大作だそうです。
「蝉法師」の方は、蝉を擬人化して、深い蝉への知識と思いを投入した力作です。
地中で7年、地上に出て羽化して7日ほどの命である蝉。
実際は10年以上地中にいる者や、運が良ければ十日、1ヶ月ほども生きる者もいるそうですが、八日目の蝉という言葉の示す通り、あまりにも長い幼虫期と、飛び立ってからの命の短さが、蝉という虫になにかしら、切ない気持ちを抱かされます。
かく言う私は、大型の昆虫や、蝉の抜け殻が大層苦手です。
夏の日、大音声をあげながら目の前をジグザクに飛んでいく蝉に足をすくませたり、夏の終わりは地面で苦しそうに激しくもがきながらさらに声を上げている蝉は、恐怖でしかありませんでした。
子供達が小学生のとき、
「お母さん、蝉爆弾って知ってる?」
と言ってきました。
死んで地面に転がっていると見えた蝉を、歩いていて知らずに靴で触れてしまうと、ジジジジジジ! と言いながら激しく動く、子供はびっくりして
おおっ!
と飛び退きます。
それを、蝉爆弾と呼ぶのだそうです。
そういえば私も子供の時から何度も、蝉を蹴ってしまってジジジ・・・!!
と、もがかせてしまって、うわっと飛び退いたことがありましたっけ。
この一冊を読んだだけで、蝉の地中での過ごし方や、羽化不全、寿命が尽きる前の蝉の弱り方など、よくわかってきます。
雄は短い一生を、鳥などの天敵に獲られるにもかかわらず、雌を呼び寄せ、その声でパートナーとして選ばれんと、声を限りに鳴きます。
声と書きましたが、実際にあの大音量を立てるのは、胴体を空洞にしてまで音声を出すに特化したボディです。
雌はまた、次代に種族の命を手渡すため、注意深く雄の立てる音を聴かなければなりません。卵を産んだらすぐに死んでしまうので、慎重にならざるを得ないのです。
この作品で、蝉の雄は旅装束の僧侶、雌は尼として描かれます。
蝉の種類の違いは「宗派」として、その立てる音は「読経」ということになっています。なんというぴったりとした擬人化でしょうか。
これ以上はネタバレになるので書くことができませんが、ご興味が持てたらぜひご一読をお勧めしたいです。
私の中の蝉感だけでなく、昆虫や生き物に対する視線を変えてしまう、大袈裟に言えば運命の作品でした。
これを読んでから、駅までの並木道を歩いてました。
子供の頃の夏休みは今と違い、朝はラジオ体操に始まり、午前中は学校のプール、お昼を食べた後は強制的に昼寝をさせられました。
扇風機とかき氷やチューペットで凌げたレベルの暑さ。
学校からの「夏休みのお便り」には、
お父様お母様へ。
日中の温度が28℃を超えたらお子さんを外で遊ばせないでください。
日射病の危険があります。(熱中症という言葉はまだなかった)
また、風のない日は光化学スモッグの可能性があるので、
予報にはいつも注意してください。
などとあった時代でした。
茶色い蝉の抜け殻が、お寺や神社の太い木に、いくらでもついていました。
蝉の声は、「蝉時雨」というようなポエムなものではなく、
ときにより、数種の、宗派の違う蝉の大合唱で、
昼寝ができないほど、耳を聾するほどの大きさのときがありました。
昔の子供は蝉の種類もよく知っていましたよ。
ツクツクホーシは ホーシーツクツク、ホーシーツクツク。
アブラゼミは ジリジリジリジリ。
日暮らしは、カナカナ蝉とも呼んだように、カナカナカナ・・と優しげに。
ミンミン蝉の、ミーンミンミンミンミンミン、ミィィーンという、下がりの音。
ニイニイゼミは、なんというかな、ニーイーチーイー・・みたいな。
本書に出てくるのは、熊ゼミの「熊」
油蝉の「油」、
ミンミンゼミの「明々」、このミンミンだけ、一人称が「それがし」です。
残念ながら、熊ゼミの鳴き方は私はわかりません。
当時の同級生のおじさんに訊いたら、わかるのでしょうね。
地上に出てからの「3人」にも、夫に出会うために旅する「尼」にも、次々と苦難が降りかかります。
でも、読後はとても爽やかです。
歩いていた並木道から出ていくあたりで、一匹の蝉が超低空で ジジジジジ! とジグザグに飛び、桜の老木の中に消えていきました。
あまりの暑さに夏休みの学校のプールが中止になったりする昨今ですが、
外で虫取りなんていうのも、「虫取り体験」みたいなイベントになってしまうかもしれないけれど、蝉が生まれて、生きて、声を立て、飛んでいく夏が、
いつまでも続きますように。
そんな気持ちでいます。
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