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エッセイ507. 「寅に翼」第10週第50話

日本全国の老若男女が
そんな!
と悲鳴をあげた、花岡の死。(50話)

あのショックからまだ立ち直れていません。
花岡は死の直前、久々に寅子に会い、その後で「懐かしい人に会って、君にも会いたくなった」と、桂場のことも訪ねてきたのでしたね。
そのときの会話に、食糧統制のこと、花岡の現職の事が出てきたので、ちらっと良くない予感がしたのですが、桂場も心配そうに花岡に
「よく寝て体を休めろ」
というようなことを言いました。
桂場の心配そうな顔に感じた、まさかという予感は当たってしまいました。
花岡は、戦後実際に、闇米を拒否し続けて亡くなった実在の判事をモデルにしているのではと言われています。

私は名古屋で、この判事さんについての芝居「テミスの女神」を見たことがあります。
とてもよかったです。
このかたの奥さんのセリフに、いくら勧めても闇米を食べない夫に、
「私、一生懸命お庭でお野菜を作りますわ。カボチャでも茄子でも」
というようなことを言う場面がありました。
そのとき私は、ものすごくヤキモキしました。
夏野菜は、GW過ぎごろに苗で植えてから、やっと7月〜9月に収穫できます。
野菜は全て時間がかかります。
昔は苗などの大量生産はなかったと思うし、非農家には苗は手に入らなかったと思いますので、当時は都会でも庭は全て畑にして食料の時給を目指していたそうですが、それも種子から育てていたかもしれません。
見ていて、暗澹とした気持ちになりました。

戦前に轟が食べていた日の丸弁当は、彼の心意気で、また自分の選択でした。
戦争は終わっているのに なぜ花岡はそういうチョイスをしなければならなかったのか。

それから、花岡が最後に寅子と会ってお弁当を食べる場面。
地べたに座った白衣の人がハモニカを吹いていましたね。

傷痍軍人と呼んだそうです。
当時もいろいろな恩給がありましたし、故郷に戻って仕事に就けた人も多かったそうですが、四肢欠損や失明などの重症を負い、帰るに帰れなかった人が多かったそうです。
その人たちも国立療養院その他で多くの時間を費やしたそうですが、中に、寺院やお祭りなどに出向いて、白衣で街頭募金を求める人がいました。
一度は禁止された募金活動は、1950年の政府との話し合いでは、禁止令を撤回せよという話が出たそうです。
昭和40年代には、傷痍軍人を装って街頭募金を続ける人たちもいたとのこと。

私は子供の頃、柴又の帝釈天で、そんな人たちを見た記憶があります。
白い服であったこと、腕や脚が失われ、ハモニカを吹いていたり、座っていたりし、黒眼鏡をかけている人もいました。
なんだか気持ちがザワザワして、混乱したような気がします。
私は本当に、見たのでしょうか。
ドキュメンタリーフィルムなどを見て、記憶に上書きしたのではないとは言い切れません。

ドラマで傷痍軍人の方がハモニカで吹いていたのが、
「異国の丘」
という軍歌です。

軍歌には勇ましいものが多い中で、一番の歌詞しか知りませんが、聞くたびに胸が苦しくなる内容でした。

覚えているところだけ。

今日も暮れ行く異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐も過ぎりゃ
帰る日も来る明日が来る

祖母と暮らしていた私は、祖母の見る懐メロ番組、懐かしのメロディーと言いましたが、そんなテレビ番組をぼーっと一緒に見ていることがありました。
その中には、二葉百合子さんの「九段の母」と言うのと並んで、数曲の軍歌が繰り返し流されていて、それで覚えていたのでしょう。

「異国の丘」は、11年に亘る、民間人と軍属のシベリア抑留についての歌だそうです。

母の叔母で、シベリアで子供を亡くし、夫は長年抑留されて帰ってきたという人がいました。
私は会ったことはありませんが、
「あの叔母さんは、絶対にそのときのことは話さないのよ」
と、母や叔母たちが話していたのも覚えています。


戦争を直接知らない世代が大部分になった今でも、戦争が地続きに思えます。

「寅に翼」、いろいろ考えさせられるドラマです。

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