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「聖属性」ってズルくないか?

サブタイトル:~彼らが委ねられる法則~

注釈:本稿は様々なファンタジー内にある宗教と現実の宗教を「不要にも比較」している点や、複数の書籍を取り出しております。


ファンタジー内の聖属性

私が一番最初に出会い「聖属性」を意識したのはFF10の「ホーリー」という技である。終盤付近且つ回復役だと思っていたユウナが大火力をたたき出すことが印象的だったが同時に「ホーリー」が「聖なる」という意味も知っていたので巫女であるユウナらしい技だとも当時は思っていた。
ただ私が長年触れてこなかったドラゴンクエスト系には僧侶や賢者といったより宗教団体としての側面も出している作品もある。
そういったゲームをやっていく中で「魔物を倒すのは聖属性が所属する談大同じく大切な行為であるため、巫女や僧侶等がパーティーに随伴する」ことが当たり前になってきた。また攻撃としての属性だけでなく、守りに長け光を操るという要素もゲームや作品によっては追加されていた要素だ。
また場合によっては天使さえも超えて神が直接降臨する場合もある。

概念の可視化

よくある「○○様のいとし子」のように、より加護を受けていたりする。また役職が高い高僧はより高位な術を唱えることができるとか。
また平然と「○○の呪いは私では解けず、▼様以上でないと」みたいなニュアンスを用いている。
このやり取り自体は現実でも権力や役職とかでも発生するが、ファンタジーの場合には「実力」が含まれる。この実力は、数値化せずとも他者がある程度把握できるレベルで顕現させる場合もあり、誰かが作り上げた虚偽や社会的に構築された暫定的な信頼等ではなく、文字通り信仰先から分け与えられた力になる。
特にゲームになると専用の「信仰」パラメータが用意されていたりするし、複数の神々が居られる場合には「忠誠度」みたいなものもある。

「ズルさ」の確信

無論信仰する上で獲得できる聖属性の限度や、試練等が加わることで一筋縄ではいかないこともファンタジー世界では容易に想像できる。またゲームの性質上、神からの試練もとい使命を受けているので様々な祈りに答えてくれる、という方程式を思い浮かぶのは何ら不思議ではない。
ただいずれの信徒も信仰対象への確信があり、それを自分たちの実績の一部として積み上げることができる。実績とは履歴書に書ける内容という側面もあるが自身の人生の旅路に大きく含めることもでき、且つそれらは他者が否定しあざ笑う余地が無いほど確実なものになる。人生という観点でなくとも自分の体や所属する自治体の法則を大きく超えた先の何かに委ねることが可能であるという事実がズルい。
または別世界の原理が日常に溶け込んでいる事実がズルく、人間社会のみで構築される価値観だけで判断されきれない点が羨ましい。

現実世界との比較

日常と祈り

朝早く起きてフレックスで通勤ラッシュを避けて悠々自適に出社。帰りも早めになっているため、少しの太陽光はあれど混雑を経験することなく明日に備えて夕日を眺める。そんな日々に感謝の祈りを捧げる。
またある日は会議時間の関係でフレックスが出来ず、ぎゅうぎゅうの電車を降りてから着替えたい程の状態で出社前に疲労困憊になりつつ、時間ずらしのために残業をしたにも関わらず同じく立ちっぱなしの混雑退勤ラッシュを経験し、限界一人飯を喉に掻っ込みながら明日はこうならないように祈りを捧げる。
この説明を聞いた時、どっちがより「祈り」として正しいか?そもそも祈りという行為自体が現代では瞑想の亜種であり、自身の精神整理のためだけに行っていると判断され、そんなことするならNoteの記事でも書いとけよとツッコミを入れられる可能性もある。また暫定的に「祈り」と書いたが、私は手を結んでたり顔を下に向けていたり、どこで祈ったかなんて一言も書いていないし、何なら「そうであり続けますように」と1週間分をまとめて礼拝日に行うこともある。
祈りという慣習に対する評価も出来なくはないが、一回ごとの祈りを経験値として蓄積されてることを誰かが知る由も無ければ、祈りに連なって言祝がれる内容が良くなることで祈りの本質(または意味)が強化されるわけではない。
また最終的にこれら祈りがどう答えられるかの解釈は、祈り手の解釈に一任されるだけで、自販機にコインを入れて選んだ商品が必ず出てくるという法則性は担保されていない。

宗教と現代科学による逆転

「ホモデウス」という書籍を熟読しその書籍が総括して言いたかった内容としては「人間至上主義が人々内の秩序を形成する」ことであり、人間以外の法則が除外されたことも明記していた。
なので上記書籍の著者曰く、現在の宗教家は自身の法則性内に対象の宗教を取り入れることを承認した上で信仰を行っていると記載しているし、それは人間の法整備下且つ所属するコミュニティから脱する状態でない限り必ずその関係性になることを示唆しており、人間至上主義の強さを語っていた。
現に我々は宗教を一種のツールとして扱っている側面が強く、我々の存在承認なしでは存在し得ない側面もあり、人間外の法則性を確立できない。またそれを哲学的に唱えることはできたとしても、哲学自体が確証を与えるようなコンテンツ等ではなく疑問に疑問を投げかけることが本質のため、真理の側面を持ちえない。

ズルい

確証が持てる非人類的な存在が、自分の努力(労力:リソース:忠誠)を全身全霊で受け止めてくれて場合によってはコミュニケーションが取れ且つそれを行うこと自体が人間社会として大いに認められる。しかも場合にはそれをスキルとして行使し現実に影響を及ぼすレベルで関与できる。
肩が痛そうな老齢な村人に「痛みは和らげられますが、あまり働きすぎないように」と忠告しつつ回復させた神官は、自分の回復の奇跡と、この治療活動が信仰対象の意志に背いていない実感がありつつ日々を過ごせる。
私が新宿駅で見かける酔いつぶれてる人たちを見て、通り過ぎ様に「無事に帰れますように」と祈っても何も起きないだけでなく、この行為自体が一種の蔑みと公衆衛生学的な倫理に基づいているのかの問いかけを行い、「このことをSNSで書いたらワンチャン炎上しそうだな」と罪悪感を覚える。
私もこんな苦難を覚えることなく、あなたを信じたい、そんな心の闇が晴れるような世界に行ってみたい、と本気で異世界転生を願う程だ。
だから常々思う、ファンタジーの聖属性はズルいと。
以下は幾つかの例題になりますが、本稿はここで〆させて頂きます。ここまで読んで頂きありがとうございます。

密かに嫉妬を覚えていた作品集

せっかくなので筆者が、閲覧している作品がファンタジーであることを含めた上でも宗教並びに神々の設定が羨ましいと思った作品を幾つか取り上げていく。

①最果てのパラディン
木霊やヘラルドを経て直接命令がある点だけでなく、主人公が強く祈りを込めた瞬間に現れる様子と、主人公の夢の世界に現れ神々が位置する次元へと招待されるのが羨ましい。
また神々が強い意志と象徴になっており作品としての融通が利く存在というわけではなく、きっちりと世界内での役割を担っている。

②火山の娘
街と礼拝堂の関係性が現代を履修している形であるにも関わらず、赴任されている司教やシスターはそれぞれ違う価値観と目標を持ちつつも、確実に存在する火山の女神様の思し召しがあり、それぞれが準備している。また親友のニナも信徒という形ではなく占いで交信を行っており、自分と占いのライフスタイルに大変満足し価値観の主軸としている。

③神引きのモナーク
「ニセモノの錬金術師」のスピンオフ作品で、照応効果というのがあり、信徒は自身の内なる神の解像度が高いほど、実在する神から得られる(厳密にはリンクされる)力を獲得することができる。如実に「信仰の見える化」が実施されてるケース。


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