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2023/09/09 最後に、ヒトの心には何が残るのだろう

高齢者施設に入居して、この夏で5年になった母、92歳。

つい先日、弟が面会に行ったら、母は声が出なくなっていたそうだ。もうだいぶ前から声が出にくいと本人が言っていたし、実際、私も母の話が聞き取りにくいと感じていた。そんな時は、わからなくても「そうだねぇ」とてきとうに相槌を打っていた。ほとんどが昔話と愚痴なので、うん、うんと頷いて聞いていた。

それがひどくなって、とうとう声が出なくなったらしい。表情もないそうだ。

でも、目は見えている。ひょっとしたら声だって聞こえているかもしれない。表情がないので、会いに行った人が誰だかを認識できていないように見えるが、実はちゃんと分かているのかもしれない。

施設に入ってまだ間もない頃のこと、親戚や近所の人が見舞いに来て、土産をもらっても、誰だったのか?いつだったか?を思い出せないようだった。そこで、手帳とペンを用意して渡したが、そこにメモを残したのはほんの1、2回だった。字がちゃんと書けなくなったと言っていた。

歳をとると握力が衰えて、字も下手になる。私自身もすでにその兆しがある。こうしてタイピングするほうが楽なので、ちょっとした手紙やお知らせを書くときもタイピングしてプリントしてしまう。

タイピングでもいいし、音声でもいい。この先もっと便利なものが出てくるかもしれない。ボケが進まないうちになんとかそういうものを使えるようになっておいて、メモはもちろんのこと、大袈裟なようだが覚えておきたい自分の歴史を残しておきたい。

自分の書いたものを誰かに見せたいとか、後の世に残したいとかいう大それたことではなく、記憶が薄れていく中で自分は何者だったのかを知る術をもちたい。

今すでに記憶がなくったしまったように見える母のような超高齢者が、本当はどんな心境でいるのか、実の子供である私にさえ分からない。1日のうちのほんの数分かもしれないが記憶が蘇る瞬間があるなら、何を思い、どう感じているのかを知りたい。

いや、もしかしたら、もう何も感じていないのかもしれない。それなら、それでいい。人はみな、無に戻るのだから。

ありがたいことに長生きできる世の中になった。しかし、その主人公である超高齢者たちの本当のところが分からない。彼ら彼女らは、どういう心理状態で、何を想っているのだろうか。

運が良ければ、私も超高齢者になる。今はその一歩手前にいるわけだが、それを知ることができれば不安が少なくなる。多少の準備もできる。ただ、そう言ったことが書かれたものはない。誰もが行く道である老いを、自ら綴ったものがあったらいいのになと思う。自分の記憶が薄らいでいくことを書き留めることはできるだろうか。

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