自分の人生物語を面白く感じれるのは自分だけ⓵
生まれる~保育園入園前
何者でもない一般的なINFJ、魚座、AB型、ひとりっ子、申年、運命数11、二黒土星の40歳代の自伝を、突発的に2024年にふと思い立って書き綴ってみる、徒然なるままに書き終わるまでにどのくらいかかるか分からないが、お付き合いください。
茨城県の玄関口と他の茨城県居住者は言うが、住んでいる人達からすると、川を越えたら千葉県だから、ほぼ千葉だと思って住んでいる。もはや、東京の中心の上野まで40分で着くんだから東京なんじゃないかと思っている素晴らしい考えの人もいる、よくある南東北地方(北関東ではない)に80年代に生まれた男の数奇な物語。
80年代に、農協職員と消防隊員の愛の結晶として生まれる。わたしが生まれる時はわたしは見れてないので、農協職員の母の回想ですが、今でも忘れないみたい。出産の際、看護師さんの「うわっ」というリアクションが産声より先に聞こえ、産声が聞こえない、いったいどんな子が生まれたんだろうと思ったそう。
心肺停止で首にへその緒が三重に巻き付いて生まれてきたらしい。死にながら生まれてきたのか。生まれながら死のうとしてきたのか。なんだか面白い状態での生誕らしかった。母からしたら気が気じゃないだろうが。産声が聞こえると思ったら聞こえないし、看護師さんはリアクションおかしいし。
どうやって生き返ったかは分からんが、きっと、看護師さんが背中強く張ったら生き返ったんだろうと思う(テレビ叩くと治る原理)。黄疸が強く出ていたが、なんとか生き返り?、正常に生まれてきた赤ちゃんより少し長く病院には居たみたいだが、世界を実感できるようになったみたいです。
今のわたしの考え方や、知能を考えると、出産時に脳に酸素いかなかったからなのかと思う。ありがとうございます、こんなおもしろく世界を見れる脳にしてくれて。知能が低いから、感覚で生きれるようにしてくれて。人の感情を強く受け取れるようにしてくれて。
生まれた後は、なんだかんだあって育っていったんだろうけど、全然覚えていないもんですよね。なんとなく思い返すと、、夜中に母に起こされて、急に母の実家に連れていかれたことあったな。あれは夫婦喧嘩だったと思う。ちゃんとしっかり、喧嘩していたんだな。
保育園に入ってからは、結構覚えている。わたしは基本的に、じーちゃんとばーちゃんに幼少期は育てられた。母の実家で日中は過ごし、夜は気が向いたら両親と家に帰ったと思うが、小さい頃はジジババの家がわたしの家だと思っていた。ジジババの家にはおじちゃん(母のお兄さん)と、裏の家と呼んでいたが、爺のお姉ちゃんの家があった。裏のばーちゃん、おばちゃん、おじちゃん、ヒロコねーちゃん、アッコねーちゃん、カズオにーちゃんに鶏も飼っていたし、人数も多かった、毎日賑やかで大人に怒られて、一人っ子だとは思わないくらい明るく育たせてもらったと思う。なんといっても隣にあった食堂に同じ年の子がいたので淋しくなかったのもある。手あたり次第、目についたものをいたずらしまくったもんだ。子供らしい子供だったようだ、キラキラした目でどうやって世界をいたずらしてやろうかと思っていたんだろう。
今後も母親に取材して、どんな子だったのかを聞いて、自分を書いていきたいと思っている。死にながら生まれてきたのだったら、今後、どんなことがあっても笑っていられると思った。死ぬより嫌なことないから。
続きはまた今度。
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