『解体「新書」』ーー新書の魅力を味わい尽くす
こんにちは、飼い主です。いつもうちの三毛猫(ミャア)さんがお世話になっております。
今回は、うちのやつが「ねぇねぇ、コロナで皆んな家で退屈にしているじゃニャい。なんか面白い話にゃあい?」って尋ねてくるので、本にまつわることで自分が「やらかしてた」ことを〝しくじり先生〟的に吐露させていただこうかと……。
さて、皆さんは一冊の本を選ぶときにどこにポイントを置いていますか?
自分は新書を書くので、たとえばその場合ですと、①タイトル、②帯、③ソデ、④著者略歴、あたりをまず見て、よさそうだなと思えば次に⑤目次、⑥まえがき、⑦あとがき、の順に目を通して、最終的に買うかどうかの判断を下しています。
タイトルの善し悪しは当然ですよね。だけれども、それを大いに補完してくれるのが、上記写真にもある「帯」であり「ソデ」でもあります。無論、誰が書いた内容なのかという著者略歴も重要ですが、ここでは本に彩りをよりもたらす大きなパーツである「帯とソデ」、そして「タイトル」あたりにまず特に注目してみたいと思います。
では、さっそくこの三点についてですが、これらは誰がどのようにしてその形を最終決定していっているか皆さんはご存知でしょうか?
まず、「タイトル」ですが、これは本の売上げに直結するもので、この善し悪しがその本(と著者のその後の)運命を決定づけるという意味からも、最も力を入れてそれをひねり出す作業に力が注がれます。いろんな意見をぶつけ合いながら、最終的には「コレ」という形に落ち着くことで生み出される、まさに毎回死ぬほどの難産を味わうものでもあるのです。
ですので、著者も当然絞るだけ頭を絞って案を出しますし、担当編集者さんもまた必死で案を考えてくださいます。編集部におけるミーティングだって幾度も経ますので、途中で度々大勢の人の目にさらされ、俎上に載せられているたくさんの「案」はどんどんふるいにかけられていきます。
まるで、精米度をあげて吟醸から大吟醸に至っていく日本酒づくりの行程にも似ているような気がしませんか?
そうやって最後の瞬間——校了日の三週間くらい前あたりまでを目処にその間、幾度も組んずほぐれつしながらそれぞれが悩み、それでも答えがなかなか見えてこないながらもついに刻限を迎えるなかで、今回は「コレしかない」という形に収斂されるのが「タイトル」なのです。
タイトルが決定したら、次は「帯」と「ソデ」の検討になりますが、これは基本的に担当編集者の持ち分になります。著者が関わることはあまりありません。
ですから、こここそは、編集者の魂が宿るところであり、本の隠し味的いわば秘伝のスパイスとでも呼べる部分でもあるのです。
「帯」や「ソデ」というのは、その本を短い一言で表すとどう説明できるか!という部分に力を割いて、一般的には勝負をかけてきます。特に「ソデ」の場合は、通常は本文の中から、その本の本質を端的に表しているパラグラフがそこにピックアップされ、適宜収まりがよい形に編集されます。
そんな「ソデ」については、概ね、「やはりそ(う)ですよね」と想定内で収まることが多く、著者も編集者も互いに安堵感を覚えて一件落着となることが普通です。
一冊の本というものには山の上り下りのようなものがあります。そのリズミカルな連なりを精査していく中にキラリと光る部分が自ずと浮かび上がってくるそれを、さすが編集者は毎回見事に掬い上げてくるわけです。いうなれば「この部分」こそが、そのリズムの、いや文章全体が有するエネルギーのヘソだな、という感じで。この点に於いて、筆者と編集者のあいだで見解に齟齬が生まれることはまずないでしょう。
では、もうひとつの重要な要素である「帯」にも目を転じましょう。帯とソデの扱いのもっとも大きな違いは、ここではまさに編集者が思う存分(いい意味で)暴れてくださるところです。「ソデ」とは異なり、己の人生観やら哲学やら趣味、感受性、表現力といった、まさにその編集者その人の人柄と知恵や経験といったものを存分に発揮して独自の「キャッチコピー」が作られます。
本文の中からキーワードをピックアップしてアレンジすることもありますし、まったく異なるオリジナルの文言で仕掛けてくることもあります。
おそらく、編集者さん自身ももっとも楽しみにしている作業のひとつが、帯の文句をひねり出すことであろうかと拝察しております。
その際、そこでの編集者の勝負カンが一体どのように現れるのか。これこそが編集者の価値観や人生哲学とも大いに関係するところです。著者とは異なるその価値観から生み出される「文言——スパイス」がタイトルなどと一緒に混じり合うとき、本の表紙からは、絶妙な全体的味わいというものがいよいよそこに醸し出されてくるのです。
編集者が心を砕いて〝仕上げてくる〟文言——秘密のスパイスを、著者は心より待ち焦がれ楽しみにしています。そして、あがってきたものに対しての真剣勝負がその場で展開され最終的な形へと仕上がっていくのですが、ほとんどの場合、編集者の手によるその案はずばりそのままに著者を唸らせることになります。
要はその道のプロである編集者がそれほどの心血を注いだものが「帯」というものなのだ、ということであります!
言うなればこれはもう正真正銘の「黒帯」だといってもよいでしょう。
しかーし、自分はその昔——本などをまだ書いたことがなかった発展途上の頃、(お子ちゃまであったが故に)そんな帯の持つ妖艶な魅力に僅かも気付くことなく、あろうことか本を買ったはじから躊躇なく剥ぎ取り……ああ恐ろしい……その先に言及することはもう勘弁してくださいな。
だってかさばるんですもの。読書しているとズレてくるし。布団で仰向けになって読む時など、ペラッと落ちてきたりしてもうどうしたってイラッとしてしまう。本棚の出し入れの際にもいちいち気を遣うし……。でも、それらの全てを併せても、だからといってあの僅かな幅のスペースに大きな「知」が集積された、いわゆるひとつの傑作選でもある「帯」を取り除くことを肯定する理由になぞなり得ないはずなのです。それは帯に対する侮辱以外の何者でもありませんから。
とまれ、そんな「帯」ですが、図書館などに納入される時にはやはり外されるようですね。保管上の問題が一番大きいようです。しかし、個人の本棚に収納する場合には是非いつまでも大事にして頂きたいですね。自分が言うのもなんですが——。でも大切にしていれば気がつけば、「その帯はもうレアもの入りしていますよ!」ということだってあるかもしれません。
自分の書籍の例でそれこそ恐縮ですが、たとえばこちらの帯なんかはその類いになるかと。イラスト入りで、表面のキャッチコピーを見てもらうと、今度は自然に裏返しにして裏面のコピーも読んでみたくなるという施しがされている凝ったつくりなのです。
イラストはなんと、あのミリオンセラー「キッパリ——たった5分間で自分を変える方法」(幻冬舎)の作者である上大岡トメさんという豪華版。しかし、この本は残念ながらいまは絶版状態です。ということは、もはやこの帯はもうどうあっても新品では手に入らない。だからこそその価値がさらに上がるということにもなるわけですが。
翻って、書籍について、特に紙媒体のものについて、先ほどの「帯やソデ」などの視点からその作りを改めて俯瞰してみると、本の魅力を伝えるためのさまざまな知の仕掛けが至る所になされていることがわかります。
特に、本を吟味する際に〝あれば助かる〟情報が、表面と裏面、内表紙内側、裏表紙内側付近に分散させて配置されており、紙媒体らしく手に取り表紙を眺めそのまま裏返したり、あるいはページをちょっとめくったりするなかで、それら有益情報に極めて簡単にアクセスできるようになっています。
これは、電子媒体ではちょっと実現不可能なことでしょう。電子書籍では情報に優先順位を付けて自分でそれに従って欲しい情報を探していくしかないわけですが、紙媒体であればザクッと全体を——それこそ文字通り手の中で掴むことができるのです。
無論、探すモノが明確な場合には圧倒的スピードでの検索がかけられるのが電子書籍の持つ片方の強みですが、なかなか最初からそこまでは到達できてはいないものです。はじめての本を手に取るとき、やはり紙媒体での作りのほうが馴染みが早いように思われます。
紙媒体の書籍というものは、手という身体器官との相互交流を果たすなかで、その本が主体性を持って全身全霊で読み手にとって必要となる情報を手渡していく、というような作業を粛々と繰り返しているようにも感じられるのです。
一方、電子書籍の場合は、本そのものからの働きかけは極めて小さいように思います。情報はあくまでも読み手が自主的に探していかねばなりません。検索スピードが速いことは確かに救いですが、しかし紙媒体のそれが実現している書籍と人間が「交流」を果たしているようなイメージからはほど遠いでしょう。
つらつらとそんなことに考えが思い至る時、本はやっぱり実際に手に取るべきだな、と私の胸の奥のほうからそのような囁きが漏れ聞こえてくるのです。そのことで本との対話が始まりだす。そして、それら〝本〟と〝私〟のあいだにおける良好な信頼関係が構築なされていくなかで、いよいよもってその本の全てを味わい尽くしたいという情動すらふつふつと湧く。気がつけば自分の心と身体に心地よい風を吹き込んでくれている。嗚呼、それこそが目眩く読書体験というものではないでしょうか。
どうぞよろしければ、下記の新刊でもそのような心地よい体験をなされてみてはいかがでしょう?
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