「利他」は亡き人からも届く
書評:『思いがけず利他』,中島岳志,ミシマ社
「利他」と聞けば、一般的に「お寺」や「僧侶」などがまず思い浮かぶことだろう。
そこでは常々、人を思いやることの大切さがややもすれば大仰に説かれていたりする。つまり、積極的に利他の精神を発揮する人——主体となることの重要性が。けれども、それに多少の反発を覚える向きも一方であるのではなかろうか。
「おせっかいではないのか? 自分のことは自分でやらせればいいではないか」と。
そもそも、「自助」が殊更に推奨される世でもある。とすれば、誰だって自分の身を守ることで精一杯のはずで、自らに優先してまで人様のことを考える余裕なども到底ないはず。
だからだろうか。「情けは人のためならず」なんて大上段に構えてみせるお坊さんもまた少なくない。利他の精神とは、他人に対するものというよりもむしろ、自分のためになっているところが大きいのですよ、などという風に。
少し正直に打ち明ければ、「情けは回り回って自分のためになるのだから」という諭しに、実は自らが率先して回収されることで、少しの安堵を得たかったりする。
恥ずかしながら、かく言う僕もそのクチでした……。
しかし、本書を読んでしまったからには、それはもう二度と口にするまいと決心した。
なぜなら、内心一抹の不安を感じながらも、「利他」を絶対的によいものと位置づけた上で執り行っていたそれまでの法話などはもう、本書によりここに一刀両断されてしまったからだ。
一見、優しく良いイメージに映る「利他」が潜在的に有する危険性について、著者である中島岳志氏は、その押しつけがましさや、利己的な欲を内包した欺瞞的な側面をあげ、時に暴力的な支配構造すらも生み出すことをあぶり出している。
それはしばしば、「ありがた迷惑」と嫌悪されるにとどまらない。ともすれば自分へ何か利益が戻ってくることへの期待感までを煽る始末。さらには、「利他」の受け手が、もし相応のお返しができなければ心に負担を覚えてしまい、結果、相手に頭があがらなくなるではないか、と断ずるのである。
たとえ、恩に着るほどのものでなく、ほんの僅かな「利他」であったとしても、場合により受け手にとっては、やはり余計な世話的な厄介者にすぐ転じてしまう。
介護の現場などでは、しばしば先回りしすぎるケアが、逆にケアされる側に無力感を与えてしまうリスクになりかねないことが課題のひとつとなっているようだ。
こうしたことは、「よかれ」と思って「利他の精神」を発揮している〝主体の側〟にはなかなか認識され難い。自分はいいことをしているハズという強い思い込みがあるからだ。
だが実態は、親切の皮を被った狼という奴で、結構バイオレンスだったりする。
恐らく、薄々その辺りのことに自覚があるからだろう。僕や僕のお仲間の僧侶みたく、その立場上「利他」を語る必要がある側の人間は、苦し紛れに〝効用〟を説きたがる傾向が強かったように思う。
「利他は、自分に戻ってきますからね」というアレだ。
それもまた到底、「利他」の本質に迫るものではなかったわけだが。
だって、それではまるで「利他」が投資に堕してしまう。利他とは決してそんな陳腐なものじゃない、と著者はその本質を糺す。
「利他」とは、あくまでも受け手が「有り難い」と受け取ってくれてこそ〝形〟を成すもので、だからこそ尊さが滲むのだ、と。
つまり、それは〝与え手〟なる者が居て、誰かに手渡すことで、いずれどこかで回収できるような、投機的なものじゃないのだ。
繰り返しになるが、「受け手」が「有り難い」と受け取ることではじめて、「利他」は〝起動〟される、と著者である中島岳志氏は考えている。
その際、感謝された側——利他を行った者は、そこではじめてその「主体」へと結果的に〝押し上げられている〟だけのことらしい。
「利他」とは、主体的に行う類いのモノではなく、受け手の存在によって(他力的に)起動されるもの。著者のそんな視点は、「利他」の〝受け手〟と〝主体〟との関係が紡がれる場の「時制」へも向けられる。
〝受け手〟にとっての「利他」は、過去からやってくる、とまずはぶつ。
「あの時の先生からの何気ない一言が自分の進む道を決めた、有り難い」というように、随分時間が経過した後に、受け手の中で大きな意味づけが〝かつてもらったそれ〟に対して成されている構造だからだ。
一方、「利他」の〝主体〟に目を移すと、その時にはそれほど大きな影響を与えることになるなどとは本人も思ってもみなかったはずだが、ずっと後の〝未来〟において、あるいは言った本人すら忘れていたであろう〝あの一言〟が、〝ある人〟——受け手にとって大いなる意味を成すものとして位置づけられるに至ったことがわかる。
つまり、それくらい無自覚的で、いわばオートマティカルに発せられた一言だったわけで、だからそれは発した本人のはからいを離れているのは明らかだ。
要するに、未来においてやがて感謝されることに〝なる〟「利他的な振る舞い」を、意図的な自己を超えてオートマティカルに繰り出されたそれは、だからこそ、後になって受け手がその有難みに気づいた時点となる——未来——から、不意にやってきてそこに宿ったものとして捉えられよう。そんな著者の考察は、それまでの「利他」をめぐる解釈にはないもので、目から鱗が落ちるのである。
——そうか、「利他」とは、自己を離れた〝あちらから〟ある日やってくるものだったのか。こちらから、しようと〝する〟ものじゃなく。
こうして、利他を行おうとする主体から、ついに〝現在〟という時間における〝はからい〟が消えていくことで、それは未来からやってくるまるで「お供え」のようにただそこに静かに在るものとなりて、やがては〝主体性〟そのものも同時にそこから消え去っていく。
著者によれば、利他とは器に注がれる水のようなイメージに重なるみたいだ。受け手という器があることで、「利他」はその中に宿る——在ることが可能となる。単独で「利他」という形を成すことは、故にありえない、と。
「利他」に形を与えるものが受け手という器だとすれば、世の中にもし「利他」を循環させたいならば、優れた受け手——器をこそ多く必要とすることをそいつは意味する。
「あの時の一言が私の人生を変えてくれた、ありがとう」と、感謝する自分の気持ちにふと各々が気づくその時、強力なスターター音を奏でて利他は次々と起動されていく。
そのことは、決して生きている相手だけを対象とするにとどまらない。著者曰く、すでに亡くなった相手からも時を超えて届くのだから。利他を通して、わたしと〝あの人〟はずっと繋がっているということだ。
亡き人を思い出して感謝を捧げることは、時空を超えた利他の主体と〝その人〟をならしめ、再びわたしの前に現れてくれるという繋がりにも連なっているのかもしれない。まるで、わたしを護るために生き返ってくれるかのように。
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