世界史 その21 中アッシリア

 異民族の王シャムシ・アダド1世の元で一度はメソポタミアの覇権を握ったアッシリアは、その後実に紀元前18世紀の終わりごろから紀元前14世紀まで目立たない存在として約400年の歳月を過ごす。ここまで古代オリエントの国々の盛衰を追ってきた身としては、その間に滅亡せず民族としての意識を保ち続けていたことにまず驚く。

 長く小勢力として雌伏していたアッシリアが、国際社会の舞台に再び姿を現すのは、紀元前14世のアッシュル・ウバリト1世(B.C.1363~28)の時代。エジプトとの外交文書によって、この時代からアッシリアの存在感が拡大してくるのがわかる。ミタンニに対抗するため、何世代かに渡ってエジプトとの国交を続けていたアッシリアは、ヒッタイトのミタンニ侵攻もあってミタンニの圧力を脱した。
 アダド・ニラリ1世(B.C.1305~B.C.1274)は、ヒッタイトとの緩衝国となっていたハニガルバドを複数回にわたって攻撃し、ヒッタイトと勢力圏を接することとなった。アダド・ニラリ1世はヒッタイトのムワタリに「兄弟」と呼びかける書簡を送り、ムワタリは返信でこのことに対して不快感を表明したことが文書に残されている。ハニガルバドはシャルマナサル1世(B.C.1273~B.C.1244)の治世に全域がアッシリアの支配下となった。ヒッタイトとカッシート朝バビロニアの間で条約が結ばれたのは、アッシリアに対抗するためと考えられる。
 シャルマナサル1世の子、トゥクルティ・ニヌルタ1世(B.C.1243~B.C.1207)は更に積極的な外征を行い、各地の資源を確保し、バビロニアを征服して王をアッシュルに連行した。トゥクルティ・ニヌルタ1世は、更にティグリス川を挟んでアッシュルの対岸に新都市を建設し、アッシュル神殿やジグラトが建設された。トゥクルティ・ニヌルタ1世が息子の1人に暗殺されると、アッシリアは混乱期に入る。服属していた周辺諸国が離反し、バビロニアも再独立を果たす。いわゆる「海の民」の攻撃もこの時期に重なってしまったようだ。
 これによりアッシリアは約1世紀の間、再び雌伏の時期を過ごすことになる。
 ティグラト・ピレセル1世(B.C.1114~B.C.1076)の代には、アナトリア東部まで遠征し多くのフリ人の小国を征服、西方でもアラム人の諸国を征服して地中海に到達、更にバビロニア侵攻と勢力を拡大するが、この王の治世のうちに大飢饉とアラム人の反撃をうけ、更に1世紀の間、歴史から姿を消すことになる。

 古アッシリアに続いて中アッシリアの歴史を纏めてみたが、この国/民族は本当にしぶといと感嘆せずにいられない。そのまま消えていってもおかしくないような亡国の危機を何度も経験しながら、よくもまた大国として復活するものだと驚く。
 アッシリアはこの後B.C.10世紀後半からオリエント全域を版図とする世界帝国を築くことになる。

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