シャムシ・アダド1世と古アッシリア
世界史その9でハンムラビ以前に北メソポタミアに君臨したシャムシ・アダド1世に少し触れたね。その時あれ?と思ったのなら、世界史をよく勉強しているんだと思う。アッシリアが登場するのはもっと後、ヒッタイトの後じゃないかって。
実は紀元前10世紀から紀元前7世紀までオリエントの覇権国家となる以前、アッシリア人は1000年にわたって独自の文化を継承していたんだ。この項ではほとんど教科書では取り上げられない、シャムシ・アダド1世の時代までのアッシリアについて纏めておこうと思う。世界史その~のナンバーからは外しておくので、マイナー好みの僕の趣味にちょっと付き合って貰えたら嬉しい。
全体で見ればマイナーどころではないアッシリアだが、古アッシリア、中アッシリア、新アッシリアと3つの時代区分に分かれるアッシリアの歴史のうち、教科書に出てくるのは新アッシリアの時代だけだろう。時代区分は政治的な要素ではなく、言語の変化によって分けられている。
アッシリア人の都市アッシュルはアッカド王朝時代にはセム系の住民が居住していた。アッカド王朝時代のある時期には、アッカド王朝の臣下がアッシュルを治めいていたことを示す碑文がある。ウル第3王朝時代の遺物としてはアマル・スエン王の代官がイシュタル神殿を再建したという碑文がある。この碑文ではアッシュルの地名に神を示す言葉が付いていて、アッシュルの地が神格化されたことがわかる。
このアッシュルの地を神として崇め主神とすることが、アッシリア人の民族としての同質性の核心なのだろう。強い宗教的結び付きの元に、アッシリア人は117代に及ぶ王朝の歴史を、一続きの自分達の歴史として認識していたのだろう。
アッシリアの王名表は、実際にウル第3王朝の影響から脱したと思われる時代のより遥かに以前から続いているが、同時代の碑文からはツィルルという王(王名表では第27代の王スリリとされる)の頃にはウル第3王朝から独立していたことがわかる。アッシリアでは神であるアッシュルこそが王であり、人間の王は副王あるいは代官を指す称号で呼ばれていた。
アッシリアでは市民集会が大きな権限を持っており、重要事項を決定した。また王とは別に毎年リンムという役職が選ばれ、公文書の日付は「~がリンムの年」と記された。何やら古代ギリシアや古代ローマの制度を思わせる制度で、古代の地中海・オリエントでは西方のギリシア・ローマは民主的で、東方のオリエント世界は専制的だというイメージがあまりに画一的だと思い知らされる。
アッシリア人はアナトリア東部のカネシュに植民地も建設した。植民地の最盛期は紀元前2000年~紀元前1900年で、アッシリア人はロバを引いて隊商を組みアッシリア本国と交易していたという。
古アッシリアの最盛期は異民族の王・シャムシ・アダド1世の時代に訪れる。シャムシ・アダド1世の父、イラ・カブカブはマリ王国に隣接するアムル人の小国を治めていた。シャムシ・アダドの代になるとティグリス川左岸の要塞都市エカラトゥムを占領、更にアッシリアをも占領した。
シャムシ・アダド1世は占領地に新王朝を打ち立てる代わりに、既に長い歴史を刻んでいたアッシリアの歴代の王の中に自分を加えることを選んだ。王名表を編纂し父イラ・カブカブの名を第25代の王として加えた他、自分の先祖の名前を更に古い時代の王とした。
シャムシ・アダド1世はマリ王国の内紛に乗じてマリ王国を併合。その他の小国も平定して北メソポタミアを統一した。
シャムシ・アダド1世は30年以上に及ぶ治世でアッシリアを強国に導いたが、その死後にはアッシリアの力は縮小してしまう。その後約400年の間は史料の乏しい期間だが、中期アッシリア時代に再びアッシリアは勢力を取り戻す。紀元前2000年紀後半、複数の大国がせめぎ会い複雑な外交関係が現出するオリエント世界で有力なプレーヤーとして姿を現すことになる。
シャムシ・アダド1世の築いた王国は参考にした本によっては、鉤カッコつきで「上メソポタミア王国」と表記されていた。これはシャムシ・アダド1世がアッシリア人ではなくアムル人だったためではないかと推測している。つまりアッシリア人以外の王に占領されていた時代はアッシリア王国と区別すべきだと著者が考えていたのだろうということだね。領域的にもシャムシ・アダド1世はアッシリアの他にマリ王国なども征服しているので、これをアッシリアがマリ王国を征服したのではなく、シャムシ・アダド1世がアッシリアとマリ王国を征服したのだと解釈して、その国家に仮の名前を与えることは不適切とは言えない。
でも僕はシャムシ・アダド1世をアッシリア王として扱うことにした。それは当人がアッシリア王として振る舞っていることを重視したからだ。人種と民族について述べた「世界史その2.5」で、民族とは帰属意識で血筋は関係ないと書いた。シャムシ・アダド1世自身が自分をアッシリア人だと考えていた可能性は低いかもしれないけれど、自分をアッシリア人の王と見せようとしていたのなら彼の王国はアッシリアなのだ。僕はそう判断してシャムシ・アダド1世をアッシリア王として扱う本を資料としてこの項を書いた。
これからも解釈の分かれる部分に踏み込んでいく必要のあることもあるだろうが、その度にその解釈を選んだ理由をしっかり書いていければよいなと思っている。
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