世界史 その11 エジプト中王国

 紀元前2040年頃、ヘラクレオポリスの第10王朝を倒したテーベの第11王朝のメンチュヘテプ2世は統一後も30年王位を保持し、ファラオの権威の確立に努めた。
 国内においては統一への過程で敵対した州侯をファラオが任命する知事に交代した。一方で統一に力を貸した州侯はその地位を保持した。宰相を頂点とする官僚制が整備され、王朝の本拠地であるテーベの出身者が要職を占めた。参考にした本には「州侯」「知事」という言葉が無造作に出てくるのだが、おそらくは地方豪族が州の首長を世襲していたものを、中央からの任命に変えたということだろう。
 対外的にはヌビアへの遠征で第2急湍までを勢力下におさめ、西方の沙漠のリビア人を攻撃してオアシスの交易路の安全を確保。大規模な交易遠征隊がもたらした石材とヘラクレオポリスから移された職人により、大規模建築や優れた芸術作品が産み出された。
 続くメンチュヘテプ3世と4世の治世にも大規模建築と採石場への遠征は続けられ、最大規模の遠征隊は宰相アメンエムハトによって指揮された。この人物は第12王朝の最初の王であるアメンエムハト1世と同一人物であるとみられている。

 第11王朝から第12王朝の交代について、参考にした2冊の本で全く記述が違うので困ってしまうのだが、「地図で読む世界の歴史 古代エジプト」(河出書房新社・1998)では「目立った紛争もなく」引き継がれたとしているのに対し、「世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント」(中央公論新社・1998)ではクーデターによって新しい王朝が開かれたとし、おそらく急速な中央集権化が地方豪族の反発をかったためと述べている。

 第12王朝ではテーベの地方神アメンを王朝の守護神とした。これによりアメン神はエジプトを代表する神となる。教科書的には、アメンの名前は新王国時代にイクナートンの宗教改革で登場することになる。
 アメンエムハト1世は古王国時代を手本とし、メンフィスから30km離れたイチ・タウイに都を建設。古王国時代の栄光への憧憬は、ピラミッド複合体の造営にもあらわれているが、中王国時代のピラミッドは建築技術としては古王国時代のものとは比べ物になるものではなく、形だけを似せた別物と言ってしまってもいいだろう。
 地方豪族に対しては譲歩をしながらも、地方豪族の義務やファラオの権利を明文化することで、長期的な中央集権の確立へ道筋をつけた。
 アメンエムハト1世は治世21年に長男のセンウセルトを共同統治者とした。治世30年にアメンエムハト1世が暗殺されると、リビアに遠征中だったセンウセルト1世は直ちに帰国して、首謀者を捕らえて王位継承を成功させた。共同統治者として後継者を指名するシステムはその後も踏襲される。

 第12王朝の歴代の王の政策を細かく見ていくことは煩雑になりすぎるので、もっと詳しく取り上げる機会があれば、ということにして、ここからは第12王朝全体での政策について述べていくことにする。

 第5代センウセルト3世の時代に、中王国の中央集権化は完成する。治世の後半には地方豪族が「大首長」を名乗ることはなくなり、墓などの形で立派な記念物を遺すこともなくなる。宰相の元でエジプト全土は3つの行政区に分けられ、行政上の決定に複数の部局を関与させることで官僚の独断や、特定の部局に権力が集中することを防いだ。これによって行政が停滞することは、宰相が最終的な権限を持つことで回避された。

 第12王朝の内政で重要な事柄としてはファイユム地方の干拓があげられる。ファイユムはエジプト最古の文化のひとつが生まれた場所ではあるが、低湿地で麦作に適さなかったため不毛の地となっていた。第4代センウセルト2世がナイルからファイユムに流れ込む水を制限する堤防の建設を始め、第6代アメンエムハト3世の時代には水門、堤防、排水路の完成で6800ヘクタール以上が新しい農地として開発されていた。新たな王の直轄地が産出する農産物は、王が地方豪族に対し優位に立つ原動力となったかもしれない。

 対外政策としてはヌビアへは軍事力による勢力拡張を図った。ヌビアには既に後のクシュ王国の前身となる勢力(あるいはクシュ王国そのもの)が誕生しており、容易には勢力を浸透させることができなかったのかもしれない。それでも最盛期にはクシュの本拠地であるケルマにもエジプトの交易拠点が設けられ金や象牙、黒檀などのアフリカ内陸部の物産がもたらされた。クシュ王国については、またしっかりと調べてまとめたい。
 一方パレスティナに対しては交易を主とした関係が築かれた。ウガリットやビュブロスからエジプトの遺物が出土し、特にビュブロスでは支配者がエジプトの称号を名乗り、墓をヒエログリフで飾るなどエジプトの勢力が浸透していたことがうかがえる。交易の範囲はパレスティナを越えて、アナトリアやバビロニアにも及んだ。

 第12王朝の最盛期となった第6代アメンエムハト3世の死後、2代で第12王朝は最後を迎える。最後のセベクネフェルが女王であることは男系の断絶を示す。伝統的な区分では第12王朝から第13王朝への交代をもって、中王国時代の終わり、第2中間期の始まりとする。
 だが第13王朝は衰退期の王朝らしく短命な王が次々交代し、傭兵隊長出身とみられる異民族の名を持つ王も出現するが、それでもエジプト全土を支配し続けた。そのため第13王朝までを中王国に区分する学者もいるとのことだ。
 王が次々交代しながらも第13王朝がエジプト全土を支配していたのは、第12王朝で整備された官僚制の力だ。
 しかしながらやがてナイルデルタで第14、第15王朝が相次いで独立するとエジプトは分裂状態となる。第2中間期の主役となるのは、異民族であるヒクソスだ。

 参考文献によって、書いてあることが違ったり、年代が違ったりしてまとめるのに苦労したが何とかまとめることができた。次はもっと早くアップしたいと思う。

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