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七つのロータス 第41章 スカンダル II

 第1章から

 夜明けからまだ間も無いというのに、雲ひとつ無い空から陽光は容赦無く降り注いでくる。整列する兵士たち一人一人に付き従う影が、底無しの穴のように黒い。パーバティは騎馬で、歩兵の隊列をゆっくり検分しながら、遥か彼方にも目を遣る。遠くまで続くのは、 収穫間際の小麦が踏み潰された耕地。踏み固められ、畝は平らになり、その実りは土にまみれ、半ば埋もれている。プハラの周囲に広がる穀倉地帯は、もはや今年の収穫は見込めぬまでに荒れてしまっていた。
「それも他ならぬ皇軍のために」
パーバティは口の中で呟いた。敵に奪われた街を取り戻すた め、皇軍は周囲の耕地に布陣したのだ。やむを得ぬ事とは言え…。パーバティの脳裡には、自らの軍が出陣のため放擲してきた屯田の姿も浮かんだ。サッラ、そしてプハラ救援のため、屯田を捨てて出陣した部隊は多い。また帝都では更なる軍の編成も進んでいると聞く。徴兵された者もまた、自らの農地を荒れるに任せることとなろう。いったい帝国全体でどれだけの作物が失われたのか。来年にはどれほど食物が不足する事になるのか…。
 広く大地を見渡せば、本来サッラ救援のため編成された一万二千に、スカンダルが率いてきた二千五百とパーバティの二千九百、街の外に駐屯していたプハラ軍二千。臨時に皇軍の下働きに組み込まれた住民を含めれば二万以上の人間が、広くプハラを囲んでいる。これほどの兵力が終結するのは、エダ戦役以後なかったことだった。当然、それだけ広い範囲の農地が踏み荒らされているのだ。
 幾度も遠くを見渡しているうちに、スカンダルの本陣から伝令が散って行くのが見えた。
「移動の用意!」
伝令が到着するのを待たず、号令を出す。包囲戦の毎日と変わらぬ、平穏な日だ。このままなら、万事打ち合わせた通りに運ぶだろう。敵が思いがけぬ行動に出ない限りは、だが。
 午前中いっぱいかかって、皇軍は配置を改めた。北門と西門から下る道を塞ぐ兵を減らし、主力を南門に集める。南門から伸びる街道を空け、その両側に軍を配置する。後は待つだけだ。それしかできない。

 正午、約束にたがわず南側城門が開いて、敵が姿を現した。馬に跨った蛮族が二列になって、堂々と坂を下ってくる。騎兵は次から次へと門から出て きて、途切れる様子もない。敵はこれほどまでに多かったのか。呆気に取られていると、ようやく騎兵の列が途絶えた。その数はおよそ千騎もいるだろうか。列の先頭は坂を下りきり、平野の街道、皇軍の陣地の間にできた通り道までさしかかっている。次に輜重隊。百を幾つか越えるのではないかという荷車が、荷を満載して運び出す。その後は徒歩の兵がひたすら陸続と。ようやく列が途切れ、城門から誰も出てこなくなった時には、すでにはっきりと日は西に傾いていた。
 戦場で鍛えられたパーバティの眼差しが、注意深く敵の隊列を観察する。騎兵が千、輜重隊が五百、長槍の歩兵が二千あまり、軽歩兵が千あまり。
「五千たらず、というところか」
帝国の一軍を大きく超える兵力だ。これほどの敵を目にするのもまた、エダ戦役以降では初めてのことだ。
「あれだけの軍勢が、略奪以外に身過ぎの手だてを知らぬのだ」
パーバティの隣で、ラムダが言った。目は敵の方向に真っ直ぐ向けられているので、独り言なのか、パーバティに話しかけたのか判然としない。
「人の姿をした蝗の群れだな」
パーバティは笑ってみせたが、ラムダはパーバティに目を向けることもない。ただひたすら、帝国軍の間を行軍する敵の隊列に視線を注いでいるばかりである。自らの部族を滅ぼした敵が、槍を突き出しさえすれば届くほどの所を通り過ぎて行く。その気持ちはいかようなものか。パーバティは、ラムダの横顔とハラート族の隊列とを交互に眺めた。

 女だな。騎兵の先頭に立つヴァリィは、街道の両脇を固める帝国軍の中に、女兵士の姿を認めた。歩兵の隊列より前で馬に乗っているところをみると、将軍であるのかもしれない。街の人間から聞いた、女将軍パーバティだろうか……。
  自軍に数倍する敵軍の兵士それぞれの、一挙手一投足にまで目を配る。和議の申し出が罠なのは百も承知だが、これに乗るしか草原に戻る道はない。敵が襲いかかってくる前触れを見逃さぬことだ。腕の毛の一本一本を揺るがす空気の流れまでも感じ取ろうとするほどの緊張。遥かな昔から戦いに明け暮れていたヴァリィにとっても、このような経験は初めてだった。幾千もの敵兵が整列する、その細い間隙を、二列になって進む。このようなことに耐えるならば、戦いの方がどれだけましか知れない。

 敵が現れたのと正反対の北側を受け持っているのは、ガズニ将軍だった。帝国軍が整列する間を通り抜けて行く敵を、遥か遠くから眺めているのは、 とてつもない苦痛だった。今、あの細く長い隊列を両脇から攻撃すれば、敵には抵抗の手段はないというのに、スカンダルにはそれをする気がない。もし街道の脇に配置されていたのだったら、命令に反してでも敵に切りこんだものを。強く手綱を握り締めている手が震えていた。

 ヴァリィの左に並んで隊列の先頭に立つアズラは、喉の渇きを覚えて水袋を口に運んだ。両側を敵に挟まれながらの行軍など、聞いたこともない。意 識せず、また水を口に含む。膝まで埋まるような細かい砂の中を徒歩で進んだ時でさえ、これほど体力を消耗することはなかった。ただ一歩一歩、馬の背に揺られることが、こんなにも辛い。戦いの前の高揚感が恋しい。
 ヴァリィは隊列の最後尾が城に逃げ込むことができなくなるまでは、攻撃されないと請け負った。だがそんなこと、わかったものではない。敵将がこれで充分だと思えば、それとも雑兵の一人でも先走って武器を振るえば、それで全ては終わる。長く列を伸ばし、陣形を整えるには程遠い以上、為す術も無い。
 また一口、唇を湿らして、遠い丘の上の城市を振り返った。雑兵の最後尾もそろそろ城門から出ようとしている。間もなくだ。ヴァリィの予想通りなら、全軍が城の外に出たと確信した瞬間、両側から襲いかかってくる。皮袋を持ち上げても、今度は幾筋かの水が流れてくるだけだった。アズラは理解できない物を見る心持で、水袋を掲げた。一日分の水を、この僅かな間に飲みきってしまったことが、信じられない。大きく一つ息をついて、袋を帯に挟んで顔を上げた。もう敵の隊列も途切れようとしている。
 アズラは大きく息を吐き出した。ヴァリィの言ったとおりだった。ここまでくれば両側から敵が襲ってきても、騎兵だけは敵を蹴散らして脱出できる。

 レンは男装して、ヴァリィのすぐ後にいた。馬の扱いに問題はないが、自分自身の扱いにあぐねていた。敵の敵は、もっと恐ろしい敵かもしれない。 その恐怖だけで、言われるまま騎兵の装束を身につけた。少なくともヴァリィはここまで、レンに苦痛を与えたりはしていない。部族を滅ぼした敵の首領だとい うことさえ忘れれば、の話だが。しっかり胸を張って堂々としていれば、兵士に見えるぞ。街を出る前に、ヴァリィが言った。女の姿を見せて敵に余計な刺激を与えることが、突発的な衝突を招くことを避けたいのだ、とも。だけれども堂々と振舞うことなど、とてもできない。馬の上で身を縮める姿は、男装した娘以外 の何者にも見えないのではないだろうか。

 スカンダルの目の前を、敵の輜重隊が通り過ぎて行く。スカンダルは自由民の身柄以外、食糧、水、薪、家畜、財宝、奴隷、その他あらゆる物を持ち 去ることを許した。もしも騎兵の駐屯地が街の中だったら、話は全て変わっていたのだ。とてもこんな条件は出せなかった。両軍のなかでただひとり、スカンダルだけがすでに緊張を解き、安堵に浸っていた。月光より始まる軍馬の血は、門外不出。ただサッラとグプタでのみ繁殖が許され、サッラに帰順する部族や、帝国の同盟国には、僅かな頭数の去勢馬だけが与えられるのみ。他の馬よりふた回り以上大柄な軍馬は、敵の手に渡すわけにはいかないのだ。だがもうそんな心配 はない。後はプハラ解放を手土産に、この大軍を連れて帝都に戻ることを考えるだけでいいのだ。

 ヴァリィは帝国軍の間を抜けると、騎兵を縦隊から正方形に並ぶ一団に組みなおし、東に向かう方向を変えた。やがて輜重隊もひらけた場所に出て、それにならう。ただしこちらは横に広い長方形だ。
「これで防壁ができた」
ヴァリィはアズラに笑いかけた。アズラはほとんどの者には笑顔に見えぬ表情の中に、大きな安堵を読み取る。さすがのヴァリィも、よほど気を張っていたと見える。
 ヴァリィとアズラはともに振り返った。軍の最後尾も既に城門から離れ、閉ざされた城門の外は帝国軍の歩兵が固めている。もはや街を奪い返すことはできない。
「何故だ。何故攻撃してこない」
ここに到って、なお敵が攻撃してこないのは、ヴァリィにしてもアズラにしても、全く予想していなかった。服属民を盾にして逃げ去るつもりが、まるで拍子抜けだ。
 後を振り返ったまま、しばらく進む。頭の中では目まぐるしく、様々な考えが飛び交う。敵との約束を馬鹿正直に守る者はいない。守るとすれば、何らかの意図があるのだ。
「面白い。面白いぞ」
一番考え易い解釈は、なにか貸しを作ろうとしているということだ。ならばいずれ、連中の方から接触してくるだろう。この俺に何をさせたがっているのか、その時に聞かせてもらおうじゃないか。
 アズラが不思議そうな顔で見ていたが、何も説明したりはしなかった。ヴァリィは東に見えてきた耕地と草原の境界を見ながら、笑い続けていた。

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