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七つのロータス 第42章 ジャイヌ II

 第1章から

 噂は静かに密やかに、そして素早く広がっていた。押し殺した声で語られる度に姿を変えて複雑になり、舞台となる場所や時間を変えて。ある者は神殿の内奥での秘められた儀式で、別の者はスカイアが人々の目の前で神懸りとなった同じ時に、神が神官長の口を借りて群衆に語ったのだと言った。死んだナープラの亡霊が皇宮に現れて、新皇帝パーラに告げたのだと言う者があり、そもそもその場面をパーラが見てしまったのだと言う者があった。すべての噂に共通している事はひとつ。先帝ナープラは誤って転落したのではなく、殺されたのだということ。そして人々はそれに付け加える。神々の怒りを。神が神官に告げたと言う者、占いに出たと言う者、天象地象に凶兆を読み取る者。神聖な皇家の血が流されたことに、天罰が下るだろう。いやプハラが夷狄に攻め落とされたのが天罰だ。罪が贖われぬ限り、七つの都の一つを取り戻すことなどかなわない。犯人は誰だ。皆知っている。皇帝を差し置いてまつりごとを私している者が誰か。皆知っている。

 * * * *

 機は熟した。ティビュブロスは朝日を浴びながら、ひとり頷いた。今日、何が起こるか知っている者は、僅か十人ほどにすぎない。事後の鍵となるオ ランエさえ、何も知らされてはいない。参加人数が少ないぶん、事が露見する惧れも少ないだろう。ここまでは全て思惑通りだが、今日うまくいくかどうかはやってみなければわからない。それに全て上首尾に終わったとしても、その先こそが更に大事なのだ。ティビュブロスは隙無く整えた身なりをもう一度確かめると、屋敷から庭へと踏み出した。今から向かえば、全て終わった頃に皇宮につくだろう。

 * * * *

 近衛将軍のプトラは、奥深い路地裏を大路の方向へと急ぎ足で歩く。少しばかり遅くなった。もう大路では労働者が行き来し始めている。路地から大路へ出るときは、よほど用心しなくては。この路地はあちこちと繋がっているから、いくらでも言い訳はきくけれども、噂が立つのはやっかいだ。小走りに動かしていた両足が止まる。人の気配。それも一人ではない。囲まれている。
「誰だ」
周囲を見まわしながら、押し殺した声で叫ぶ。
「近衛将軍殿、皇宮の会議に娼家から直行とは、たいした心臓だな」
姿を現した男は男性神官の正式な装束に、神の怒りを表す神楽の面をつけていた。
「名乗るつもりはなさそうだな」
プトラは言いながらも、周囲の気配を探っていた。黙って護身用の短刀に手を伸ばし、この窮地を脱する手段を考える。身を翻して逃げれば、何人も待ち構えている。ならば……。
 プトラは短刀の鞘を払うと、目の前の相手に突進した。男は明らかに狼狽し、身をかわして刃を避けるのがやっとだった。男を突き飛ばし、傍らをすり抜けて走る。背後で慌てた叫び声が聞こえる。やはり正解だ。こっちに待ち伏せはいない。そう思った瞬間、右脚が動きを失った。地に転がると、太い矢が太腿に突き立っているのが見えた。抜こうにも、柄が折れて握ることもできない。遅れてやってきた痛みに耐えて、ようやく立ちあがったところに男たちが追いついてきた。全員が神官の装束に、同じ面をつけている。一人はプトラの命取りとなった弓を手にしていた。
「スカイアの手下か」
食い縛った歯の間から問うても、男たちは答えない。脂汗が額ににじむ。俺を捕らえるつもりか、それとも殺す気か。その答はすぐにわかった。

 近衛将軍の亡骸を前に、男たちは面を外した。
「だから注意しろと言ったんだ。危ないところだった」
そう言ったのは、弓でプトラを足止めしたサイスだった。
「すまない」
ラジは視線を死体に向けたまま言った。危うく全ての計画をぶち壊しにするところだったのだ。
「まさか俺の方に向かってくるとは」
溜息を吐きながら振り払うように視線を死体から外すと、今度はサイスの冷ややかな視線にぶつかる。悪態をひとつついて、武器を鞘に収めた。

 * * * *

 内宮と外宮を繋ぐ渡り廊下は、輝く葉を広く繁らせる木々を両側に配した、皇宮でも特に気分の良い場所である。ジャイヌは木の葉からの照り返しを全身に浴びるような心持で、議場へと向かっていた。自分を脅かす者はもはやいない。その思いがジャイヌの心を和ませる。確かに皇帝との血縁は失われたが、 摂政の地位は安泰だ。生意気な孫に振り回されるより、この方がずっといい。さらにはナープラの愚挙をきっかけに、反ジャイヌを標榜していた連中も手懐けることができた。自分の孫を帝位につけたときには、これで権勢を極めたと思ったものだが、まだそれ以上の先があるとは。
 雲を踏むような足取りで、 外宮の回廊に降り立った途端、五人の近衛兵が速足に近づいてきた。はて何故ゴウイイが自ら外宮の警護に就いているのだろう。ジャイヌは訝った。皇宮の警護は近衛軍の仕事だが、常には百人程度の部隊が数隊、皇宮に詰めているだけである。指揮を取るのもその小部隊の隊長にすぎない。近衛軍の筆頭千人隊長、すなわち近衛将軍の次席でもあるゴウイイが、近衛軍の陣営を出て皇宮に来ているということは、それだけで異常なことであった。
 胸騒ぎに襲われたジャイヌを、ゴウイイが呼びとめる。
「何事が起こったのだ」
呼びとめられる前から足を止め近衛兵たちを見ていたジャイヌは、ただならぬ事態の出来を確信した。

 * * * *

 手が目の前に伸ばされる。血のついた男の手が近づいてくる。手はパーラの腕を掴み、どこかへ無理やり連れていこうとしているのだ。
 声にならぬ悲鳴を上げる。朦朧としていた意識が、パーラの中で再び正しく働き出す。
「また」
パーラは静かに息を吐くと、首を垂れ、もはや涙も涸れたような両目を瞼で覆った。乾いた唇が割れ、口の中に血の味が広がった。
 パーラの眠りは即位の儀式の日以来、日毎に浅くなっていった。今では寝床の中で目を瞑りながらも醒めている一方で、日中には目を開けながら夢を見ることもある。居眠りをしているわけではないので、長い夢ではない。一瞬だけ現れては消えうせる幻の連続のようなものだ。
 取り乱してはだめ。パーラは空虚な心の中に、必死で思考を撚り合わせる。自分が生きていられるのは、扱いやすい皇帝だから。もし扱いづらいとなれば、たちまちナープラと同じに……。儀礼のさなかに諸侯の前で泣き出したり、叫んだりしたら……。
 間もなく迎えが来る。外宮での会議の間だけでも、気を確かに保っていなくては。

 * * * *

 ジャイヌは目の前で立ち止まったゴウイイに目を取られて、他の近衛兵が自分を取り囲もうとしているのに気づくのが一瞬遅れた。目の端を流れて行く姿に首を巡らすと、四人の近衛兵は両脇と背後を遠巻きに固めている。
「摂政閣下、勅命により捕縛せねばなりませぬ。ご理解下され」
ゴウイイが静かな口調で言った。
「何の勅令だ!」
ジャイヌは混乱していた。自分が知らない勅令などありえない。その思いが先に立って、相手が自分を捕縛しようと言っている事すら、耳に入らなかった。
「ご覧下さい」
ゴウイイはジャイヌの目の前に、麻布に書かれた文書を広げた。ジャイヌの目はその文言ではなく。ただ瑠璃色の印璽に注がれた。本物の玉爾。何故だ。確かに玉璽を取上げることまではしなかったが、パーラが勝手に誰かに会う事はできなかった筈。いつどこで監視が破れたのだ。
「摂政閣下は先帝、ナープラ幼少帝を弑した疑いが持たれております。陛下におかれましては、神明裁判にて事実を明らかにする意向にございます」
しばらくはただ繰り返し書面を目で追うだけだったジャイヌも、ゆっくりと頭をあげゴウイイの視線を受けとめた。
「誰の讒言か知らぬが、疑いはすぐに晴れよう。儂は自宅で蟄居、ということになるのか」
「はい。ご自宅まで我らが護送し、屋敷の周囲は近衛兵で監視させていただくことになります」
素早く考えを巡らす。ここまで全く秘密を保ってこれたのなら、この陰謀はごく小人数で進められたもの。同調者も多くはなかろう。ここで殺されないのなら、いくらでも巻き返しはきく。
「ではご一緒しよう」
お粗末な陰謀だ。そう思えば笑いすらこみ上げてくる。これでまた今まで気がつきもしなかった反対派を抹殺できる。玉璽をどうやって捺したかは気になるが、それだって逆にパーラに脅しをかけるのに使えるだろう。
  五人の近衛兵に囲まれて外宮の建物から外に出る。宮殿の門へ数歩進んだところで、ジャイヌの耳が金属の擦れる音を捉えた。思わず足を止める。ゴウイイが振り返るなり、ジャイヌに体当たりする。後に弾き飛ばされる体を、後の近衛兵がしっかりと支える。ジャイヌは異様な感覚に、おそるおそる自分の体を見下ろし た。体の中央に深々と突き刺さった短刀。しまった。ジャイヌはそう思うのが精一杯だった。力と思考が体から抜け、ジャイヌは大地に崩れ落ちる。いつの間に短刀が抜かれたのかわからないが、大きく開いた傷口から鼓動にあわせて血が噴き出している。全てが遠ざかってゆくような感覚の中で、血の臭いだけが最後まで感じられた。

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