世界史 その18 東南アジアの新石器時代

 東南アジアでは古くからバナナ類が食物とされていた。氷河期の終了から紀元前5000年頃までの温暖期の間に、おそらくはマレー半島付近で野生種のバナナから栽培種のバナナが生まれた。東南アジア大陸部の山地ではヤムイモも利用された。他にニューギニアで栽培化されたサトウキビも導入された。これらの作物は栄養的には炭水化物に偏っており、タンパク質や脂質は他の食物から摂取する必要があった。逆に言えば動物性の食物でタンパク質・脂質を摂取できるため、これらの植物だけが栽培されるようになったと言える。
 動物性の食料としては竹や籐での罠猟や、毒草からとった毒を利用した吹き矢猟で得た小動物や鳥、魚介類の他、豚・鶏の飼育も始まっていた。食料としてとは限らないが、犬も飼育された。
 紀元前10000年~紀元前5000年頃に北ベトナムを中心とするホアビン文化が生まれたが、土器を持たない文化だった。ホアビン文化はその後バクソン文化へと発展するが、東南アジア群島部は旧石器時代と同様の細石器を主とする文化が続いていた。
 イモ類の利用は東南アジアから北側の照葉樹林帯の人々に伝わり、マムシグサ、コンニャクなど温帯性のイモ類の利用が始まる。これらは加熱したり水に晒すなどの作業が必要で、これらの技術は紀元前4000年頃に東南アジアにもたらされ食用するのに加熱する必要のあるタロイモが食物化された。
 植物を水に晒して澱粉を得る技術は海岸部のサゴ椰子にも応用され、ココ椰子の利用と併せて、湿潤な気候の群島部でも人々の生活が活発化してゆく。

 イネの栽培が東南アジアに伝播したのは紀元前2000年頃、紀元前3000年頃から気候が寒冷化しており、寒冷化の進行に従って中国南部の山地部に住んでいた人々が低地へ南へと移動していた。モンゴロイド南方群と呼ばれる彼らが東南アジアに到達したのも同じ頃なので、その人々が稲作も伝えたのかもしれない。焼畑農法で森林を焼き、最初にイネと雑穀を混合して栽培、次にイモ類やサトウキビなどを栽培し、農地を放棄して別の場所を焼くというように、それまでの農業のサイクルの中にイネと雑穀の栽培は取り込まれていた。また焼畑の行われる山岳地の合間に盆地などでは、天水を利用した小規模な水田が作られるようになる。
 保存のきく穀物が栽培されるようになると、タイ北東部、ラオス、カンボジア北部などに人々が住むことができるようになる。雨季と乾季がはっきりと分かれる平原は、乾季の間の食料として貯蔵可能な食物が必要だったのだ。この地域で水稲栽培が盛んになると、周辺の山間部では陸稲の栽培の必要が薄れて雑穀栽培が優越していくようになる。

 紀元前1600年頃、東南アジアから中国南部のどこかから一群の人々が出発し、ニューギニア北岸からビスマーク諸島の地域に定住した。彼らはラピタ人と呼ばれ、その文化はラピタ文化と呼ばれる。豚・鶏・犬の飼育、バナナ・ヤムイモ・タロイモの栽培、土器の製作などの技術があり、何より船で移動する航海術を持っていた。ラピタ人はその後太平洋に乗り出し、ポリネシアの島々へ広がっていく。同じ頃フィリピン群島からもミクロネシアに移住する人々がいた。

 東南アジアでは紀元前1200年頃に青銅器の製作が始まり、紀元前5世紀頃には鉄器の使用が始まる。

 前回の縄文時代に続き、今回も参考にした書籍の内容を抜き出しただけ、というような項になってしまった。元の知識が少ないせいで、新たに得た知識を消化しきれていない感がある。
 また機会があれば、大幅に書き直すかもしれない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。


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びぶ
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