七つのロータス 第29章 サイスV

 サッラの城門の上からただ西の方角を見ている。今日もまた日が暮れる。サイスは溜息をついた。今日も援軍は来なかった。サッラを包囲する敵を追い払ったとはいえ、味方は半分に減り、なお敵がどこにどれだけいるのか見当もつかない。敵が再度サッラに来襲した時に迎撃する兵力はおろか、敵を探すための兵力にすら事欠いている現状を、都に書き送ってからいったい何日経ったというのか。援軍どころか伝令の一人もやっては来ない。六千の兵の半数を失ったという報告が、軽々しく扱われたはずはないのに。ならば伝令に何かがあったか。いや連絡がなければ、グプタから誰かが偵察に派遣されるだろう。敵が遠巻きにサッラを包囲していて、グプタとの間が遮断されている?いやサイス自身、西へかなりの距離を偵察してみたが、敵の姿はなかった。いったい、どうなっているのだろう。何度もそうしたように、また西へ目を凝らす。赤く彩られた草原は、謎を明かしてはくれない。あんなに低い空にあっても、太陽は肌に痛いほどの光を送ってくるが、風にはすでに夜の匂いが含まれている。
 階段を踏む、軽やかな足音があった。背後を振り返ると、アルタスが笑顔を浮かべて立っている。
「サイス将軍、まだグプタからの便りはありませんか?」
「ええ、まったく何がどうなっているのやら」
「まあ、こんなところにいつまでも立っていても仕方がないでしょう。見張りは兵に任せて、食事に致しましょう。父も将軍をお招きしたいと申しておりますし」
丁重でありながら、親しみを感じる口調。アルタスは招くように、軽く手を広げて階段を示している。
「そう致しましょうか」
サイスは答えながらも、未練がましくもう一度西の方角を振り向いた。暫く夕陽に照らされた大地を見ていると、何かが動いたような気がした。胸壁に駆け寄り、身を乗り出す。
「どうしました」
アルタスの声が遠くに聞こえる。返事もせずにじっと目を注ぐと、やがて五騎の騎兵の姿が平原に浮かび上がった。
「味方、か?」
サイスとアルタスはただ騎兵が近づいてくるのを待った。刻一刻と暗さをます中で、帝国の騎兵だという確信が持てるまで。
 東の空に星が輝き出す頃、サイスとアルタスは帝国からの使者を迎えるため、城門へと急ぎ足で降りていった。

 紅蓮とサイスが城門の外へ出迎える。騎士たちは足取りを変えることなく、まっすぐに近づいてくる。先頭に立つのが、近衛軍の千人隊長のひとりグルクであることもわかった。
「よく来て下さいました。ありがたく思います。さあ、ご一緒に街の中へ」
笑顔でそう語りかけて、相手の複雑な表情に気づいた。グルクの背後に控える騎兵の中には、好意的とは言えない薄笑いを浮かべている者もいる。
「サイス殿、私の持ってきた報せは、サイス殿の望むものではないかも知れませんぞ」
グルクの顔にも、言葉に似つかわしくない笑いが浮かんだ。
「それは、どういう…?」
六人が足を止めかけたところに、アルタスと白銀がやって来た。
「帝国のみな様、お話し合いは街の中でなさいませんか?食事の仕度もできております。難しい話は、その後にいたしましょう」
幾人かが頷き、七人は無言でサッラへと馬を向けた。

 会話の弾まぬ食事の後、ゾラやアルタスらも同席のもとで、グプタからサイスへの指令が伝えられた。
「それはつまり解任、ということですか」
サイスが顔をこわばらせた。
「まあ、陛下にもお考えあってのことでしょうから。都に呼び戻されたからと言っても、一概にサイス殿にお咎めがあるとは限りますまい」
グルクの背後でたまらずに噴き出した男がいたが、グルクはそれをたしなめようともしない。それどころかグルク自身が、もはや冷ややかな笑みを隠そうともしていない。サイスは怒りを静かにこらえながら、噴き出した男を睨むだけにとどめた。
「では出立は明朝。伴は選ばせていただけるのでしょうな」
「サイス殿、あなたのお伴のためだけに、割けるような騎兵がいないことは、あなただってよくご存知のはずだ」
サイスは一瞬言葉を失ったあと、立ち上がった。
「サイス殿、落ちつかれよ」
それまで無言で、帝国の人間同士の遣り取りを聞いていたゾラが割って入った。サイスは大きく息を吐き出し、敷物の上に腰を落す。
 ゾラはサイスが落ちつくのを待って、グルクへと語りかけた。
「帝国の方々がどう思おうと、サイス殿は我々サッラの人間にとっては恩人だ。ただサイス殿を辱めるためだけに、そのような仕打ちをしようというのであれば、帝国にとってけして利益にはなりますまいぞ」
「とんでもない、これは純粋に兵力の問題です。我々とて充分な兵力さえあれば、サイス殿にご無理をかけることもないのですが」
グルクは笑顔で言う。とぼけきるつもりもないのだ。サイスは屈辱に肩を震わせた。
「ならば僕がご一緒いたしましょう」
周囲の目が一斉にアルタスに注がれた。族長の息子はいつもと変わらず、静かな笑顔を浮かべている。
「本当にサッラに危険がないのなら、カライ叔父のところに戻らなくては」
「サッラから危険が去ったのならば、特使が帝国と交渉する事はもう残っていないだろう。儂はもうカライも呼び戻そうかと思っているのだぞ」
アルタスは力強い眼差しで、父親を見据えた。
「なにをおっしゃるのです。最初の目的がまだ達せられていません。帝国にはタラス解放のための兵を、出してもらわなくては!」
 誰もがアルタスの言葉に驚き、言うべき言葉を失った。やがてグルクら帝国の使者たちから、笑い声があがった。
「アルタス殿は、ことの重大さをおわかりになっていない。七つの都の一つが敵に奪われたのですぞ!もともと帝国の庇護の元にあったわけでもない国に、援助を与えているような場合ではないではないですか」
グルクが諭すように言っても、アルタスは表情を変えなかった。
「本当にそうでしょうか」
アルタスは静かな声で言った。またしても人々の声が途切れた。
「何のことを言っておいでか」
グルクの顔からは、笑いが拭い去られている。
「先程、お話を伺って、気がついたのです。帝国に攻め入ったのも、サッラを取り囲んだのと同じハラート族ではないか、と」
言葉を切って辺りを眺めわたす。口を挟もうとする者はいない。
「草原の民の中には、確かに帝国の辺境を脅かし、略奪をはたらくような部族も多々おります。しかしそのような部族は皆、帝国との争いの中で力をすり減らし、勢力を衰えさせています。我々の知る限り、帝国の街を陥落させ得るような勢力を持った部族はありません」
アルタスは帝国の使者を一瞥した。
「グルク殿はまだご存知ないとは思いますが、捕虜の尋問によれば、ハラートは十の支族に分かれた大部族。それが各々、征服した部族から徴集した兵士たちも伴って、西へ西へと向かっているとのこと。サッラを囲んだのとは別の支族、あるいはサッラを包囲したまさにその支族がプハラを陥としたのだと思います」
「理屈は通っている。だが、帝国がプハラの奪回に手一杯ということには、変わりないのではないか」
ゾラの重々しい声が、広間に響いた。アルタスは父に向き直った。
「勿論、すぐに兵を出して頂けるとは思っていません。ですが帝国の方々が、プハラを占領した敵に続く大軍があることを知らず、プハラを解放しただけで『平和来たれり』とせぬよう。捕虜の言葉によれば、十万を越すというハラートを討ち果たすまで、安心はできないということを帝国の方々に訴えて参ろうと思っています」

 サイスは寝台に横たわって、窓からの微かな星明りに照らされた天井を見ていた。アルタス殿のおかげで、ある程度は不名誉をまぬがれたとは言え、将軍を解任されたことにかわりはなかった。そして後任となったグルクの、あの無礼な態度!あれだけで、グプタに帰った後の己の立場は、察しがつこうというものだ。 指揮杖を持ち返り、皇帝に、というよりも摂政に返還すれば、仕事は終わり。その後、自分に任される仕事があるのがどうか…。サイスは膝を引き寄せて身を丸め、なんとか眠りにつこうと努めた。

 ネムは与えられた部屋のすぐ外で、回廊から中庭を眺めていた。焼き煉瓦の回廊に腰を下ろし、脚を中庭の上にぶら下げている。中庭は月明かりに照らされ、白く輝いているように見える。
 回廊を近づくアルタスの足音に気づいたのか、ネムは顔を上げ、その目がアルタスの視線にぶつかると微笑を浮かべた。アルタスも微笑を返し、ネムから少し離れて腰を下ろす。
「この間、言っていたとおりになったよ」
アルタスの言葉に、ネムが不思議そうな表情を浮かべる。
「帝国の街を、草原の民が陥とした。ハラートに間違いないだろうね」
驚くネムに頷いてみせる。
「ハラートがひたすら西へ攻め進んでいるのなら、帝国の領内に現れてもおかしくないと、ネムが言っていたとおりになった。おかげで会議の席上、みんなを感心させることができた」
表情を曇らせるネムにアルタスは笑いかけたが、ネムは中庭の土の上に目を落としたまま悲しそうな顔をしていた。
 アルタスは暫くネムの横顔を見つめ、話を続けた。
「僕はまた、グプタに行ってくる」
ネムの視線が素早く、アルタスの顔に戻された。
「何故?サッラはまだ、大変な時なのでしょう」
「このままでは、帝国はタラスのことを忘れてしまいかねないから。そうならないよう、力を尽くしてくる。タラスに居座っている連中まで含めて、ハラートを一掃しなければ、帝国だって安心できないんだぞ、って言ってくるよ」
ネムはまた視線を下に落した。つられてアルタスもその視線の先を追う。回廊に腰掛けたネムの素足が、庭の上で揺れている。
「ごめんなさい」
ネムの声は、聞き逃してしまいそうなほど小さかった。
「何も謝ることなんかないだろ」
「だってサッラだって、戦争に巻きこまれて大変だったのに。まだ後始末も全然終わってないのに…。それなのにタラスのためにそこまで…」
「タラスのためだけじゃない。ハラートは僕たちみんなにとって危険な敵だ。サッラにとっても、タラスにとっても、帝国にとっても。タラスから、できれば僕たちの目の届く範囲の土地全体から、叩き出してやらなきゃ」
アルタスは中庭を巡る建物の屋根に囲まれた、狭い空を見上げた。漆黒の空に、無数の星がまたたいている。
「それに長年争ってきたタラスと敵同士でなくなったら、サッラにとっても素晴らしいことだ。そうだろ」
アルタスはネムの横顔を見ていた。長い髪が耳を覆うあたりを。ネムが首をひねって、アルタスを見返す。
「そうね、ほんとに」
笑顔を浮かべるネムの目じりに、涙がにじんでいた。

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