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七つのロータス 第11章 サイスII

 第1章から

 当番の兵士が起床を知らせながら天幕の間を巡る。サイスは横たわったまま目を開いた。結局、ほとんど眠る事ができなかった。そう思いながら立ちあがり、夜の寒気に強張った上体を持ち上げた。よし、行こう。自らを奮い立たせて立あがり、手早く武具を身につけて天幕から出る。明け方というにもまだ早い空には、未だ星が残っている。兵士たちは天幕の前に分隊ごとに集まって、食事の仕度をしていた。ゆっくりした歩調で宿営地を見まわる。特に異常は無く、万事順調に進んでいる様だ。
「よく食べておけよ。今日は決戦になるぞ」
日頃より多めに配給された食糧に戸惑う兵士に、食糧を増やす様命じた当のサイスが声をかける。あれこれ兵士たちに言葉をかけつつ歩いたので、陣地を一巡りして自分の天幕のところに戻った時には、既に粥ができあがっていた。炎の前に腰を下して、湯気の立つ器を受け取る。ほとんど味のついていない粥だが、火傷しそうに熱いまま飲みこむと、背に汗が浮いてくるのが感じられた。血が体の隅々まで巡り、体に染み透った冷気を押し流してゆく。素早く粥を食べ終わった後で一杯の白湯を飲むと、額にも汗が感じられた。
「よし」
 声を出して立ちあがる。兵士たちが自分を見つめている。五千を越える兵士たちの視線を感じながら、ゆっくりと周囲を見回した。皆、食事を終えている。
「整列!」
サイスが命じると、即座に全員が立ち上がって動き出した。各隊の隊長が命令を復唱する必要も無かった。
「帝国の第一の同盟国であるサッラの死活は、本日この一日の戦いにかかっている。皇軍の兵士の名誉にかけて戦ってもらいたい」
短い訓示の後で、兵士たちは小隊ごとに荷車の間を通って陣営の外へと進み出て行く。空はようやく明るい水色に染まり、大地にも光を投げかけ始めていたが、太陽はまだ姿を見せていなかった。日の出まではまだかなりの時間があるだろう。

 太陽が昇る。濃いオレンジ色の光条が、まるで射るように伸びている。昨日の戦闘で約半数にまで消耗した歩兵の二隊を陣地の守りに残し、残る四千五百の帝国軍と五百の遊牧民の騎兵が横陣を組んだ。斜面の下では日の出前に帝国軍が出陣したのを知った敵が、後手を踏んだ事を悟って右往左往している。サイスは微笑した。敵はまだ眠っていたところを叩き起され、食事も摂らずに陣形を整えようとしている。体は冷え切っていることだろう。問題はこの優位を活かしてこのまま戦闘に入るか、サッラ側の出陣を確かめるまでは動かずにいるか、だ。時間を置けば、せっかく敵の意表を突いた優位をむざむざ失ってしまうことになる。 だが今目の前で慌てて武器を整え、隊列を組もうと駆けまわっている敵と同様に、サッラの人々もこれほど早く戦いが始まると思っていなかったとしたら、全ての敵を引き受けねばならなくなってしまう。だが考えるまでも無く、サイスの腹は決まっていた。
「進め」
サイスの指示で横に長く広がった隊列が、歩調を合わせて前進を開始した。焦らずはやらず通常の行軍と同じ速度で。数において優る敵に対し、状況で優位に立ったものをみすみす無駄にすることはない。それに、ここでサッラ側より先に行動すれば、サッラ側の作戦に従う事で同盟国に戦闘の主導権を譲った、という不名誉も帳消しにできるかもしれない。サイスは馬上で右手に指揮杖、左手に手綱を握り、敵陣を睨みつけていた。
 敵の天幕が立ち並ぶ一帯に向けて進む帝国軍は、騎兵を重装歩兵の後方に置く変則的な陣形を取っている。主力の重装歩兵の両側面を守るのは、剣を持つ遊撃兵や弓兵、投石兵である。
 二百騎ほどの敵騎兵が帝国軍の前面に躍り出て、その戦列に向けて矢を放った。歩兵が陣形を整えるまでの時間稼ぎにすぎないのは明白だ。矢と投槍で迎撃されて、あっさりと引き下がる。ようやく陣形らしい形があらわれだした敵に帝国軍が迫る。槍を構えた重装歩兵の突進に、軽装のうえ横陣を組み終える事ができずに個別に応戦するしかない蛮族の歩兵はまともな抵抗はできないだろう。サイスは馬上で指揮杖を揮い、まっすぐに敵を指し示した。
「敵は浮き足立っている。進め!」
サイスの命令は戦場全体に轟いた。それに応える兵士たちの歓声は、それだけで敵を圧倒した。いつしか行軍速度から速足、そして駆足になっていた兵士たちは、そのまま敵に突撃してゆく。敵の前面はあっけなく崩れ、敵の屍を乗り越えた帝国軍はなおも進む。まるで枯草を薙ぎ払うようにして、次々と敵を倒してゆく。だがサイスは厳しい表情のまま、馬上から戦線を見渡していた。
 まともな抵抗もできないまま壊走する前面の歩兵を蹴散らし蹴散らし、帝国軍は進む。だが、両側面には無傷の部隊がそのまま残って、態勢を立て直しつつある。
「サッラ軍はまだか…」
サイスの胸の中に、戦闘の興奮とは別の、鉛のように重苦しい感覚が生じていた。このまま進めば両側面から挟撃される。進撃を止めれば四方を包囲される。退こうにも、陣形を転回させる間はまったくの無防備となることになる。その間にも帝国歩兵の隊列は、敵の天幕の立ち並ぶ区域に踏み込んでいた。天幕を引き倒し、踏みつけて進むうちに、隊列が乱れる。帝国軍の正面には、帝国軍に押されて退き退き戦う敵の歩兵、そしてその背後に聳え立つサッラの城壁。だが城壁の上に人は見えず、城門は一寸だに動く気配を見せない。帝国軍はその見かけの優位とは裏腹に、極めて危うい状況にあった。
「サッラ軍はまだ動かないのか…?」
サイスがそう呟き、いま一度城壁を見上げた時だった。重々しい銅鑼の音が一つ轟いたかと思うと、突然、城壁の上にこぼれ落ちんばかりの兵士が姿を現し、帝国軍に押されて城壁に近づき過ぎた敵に、矢を雨と降らせた。狭間胸壁から身を乗り出して、ほとんど真下へ矢を放つ者もあった。第二の銅鑼。城門が弾かれる様に開き、無数のサッラ騎兵が飛び出して、追い詰められていた敵に背後から襲いかかる。挟撃された敵には、もはや切り刻まれる以外なすすべはなかった。
 待ちかねた!サイスは指揮杖を振りかざし、左前方を指し示した。
「全騎兵、突撃!」
歩兵の隊列の後ろで待機していた帝国騎兵二百、遊牧民の騎兵五百が、引き絞った弓弦から撃ち放たれた矢のように、敵に向かって駆け出して行く。サッラ騎兵も帝国軍の意図を察したのか同方向の敵に向かってゆく。
「転回!」
左翼の敵が騎兵の突撃でひるんだ隙に、方陣を組む歩兵隊を右翼の敵に向かわせるのだ。サッラの城壁に向かう横陣の、右端の兵が歩みを止める。逆に左側の兵士たちは、もはや抵抗する敵のいない天幕の間で足を速める。三千五百の歩兵が作る横陣が、ゆっくりと真横に向き直る様は壮大ではあるが、サイスはその間の脆弱さを思って、隊列の背後を幾度も馬を駆って巡った。
 やはり敵は反撃の機会を逃しはしなかった。崩れかかっていた敵は、いつのまにか踏みとどまり、血刀を振りかざして一斉に襲いかかってきた。
「ひるむな!退くな!踏みとどまれ!」
サイスは叫びながら、再び戦列の端から端までを駆け抜けた。半分に分断したとは言っても、まだ敵は帝国軍を圧倒できるだけの兵力を持っているのだ。気圧されたらそれで終わりだ。
 巧みに長槍を操る兵士たちは、堅く方陣を組んでいれば容易に敵の接近を許しはしない。だが転回中の隊形の乱れを突かれれば、接近戦に対応できない長槍兵は脆い。サイスは左翼の軽歩兵のところまで馬を駆けさせた。
「弓兵隊、大声を出している敵を狙え。指示を出している奴がわかれば、そいつを。できるかぎり、敵の士気を挫くようにしろ。遊撃隊は、わたしに続け」
指示を出し終えると、そのまま馬を躍らせる。剣で武装した兵士の一隊が続く。帝国歩兵の横陣には、既にいくつか切れ目が生じていた。その場に居るべき兵士が倒されたり、隊列を転回した時に、隣り合っているべき兵士と兵士の間が開いてしまったりしてできた陣形の破れ目。サイスはその中でも大き目の隙間に跳びこんだ。片手で抜き身の長剣をひらめかせ、馬の脚を緩める事もせずにそのまま振り下ろす。手近にいた敵兵が、顔面に刃を受けそのまま崩れ落ちる。
 サイスの後に続いた兵士たちも、帝国軍の弱点と見て押し寄せてくる敵に立ち向かう。
「早く隊列を立てなおせ!」
左手に持ちかえた指揮杖のかわりに、長剣を宙で振るって兵を鼓舞する。やがてあたりから敵は追い払われ、帝国軍は隊列を整えなおすことができた。陣形のほころびを繕い終えると、サイスは次の場所に向けて馬を駆けさせた。総大将自ら馬で駆けまわり剣を振るう姿に、帝国の兵士たちは力を取り戻した。味方の陣形の崩れかけた個所を、一つ一つ立て直してまわるうちに、一直線の隊列ができあがる。
「前進!」
隊列の後でようやく馬をとどめ、指揮杖で真っ直ぐ敵を指し示したサイスの声に、帝国の兵士たちは大歓声で応じた。

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