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責任をとるということ、それから暴力(平和)。|weekly vol.0106

今週は、うでパスタが書く。

オリンピックが始まってしまった。
二〇二〇年という、いまになってみれば思いもかけないかたちで生涯忘れえぬ年となったまさにその年に東京でオリンピックが開催されるだろうと決まった時の首相は、安倍晋三だった。
長期政権を実現した安倍がその間もっとも非難されるべき態度は、「事実にもとづいた説明で理解を求めようとせずにウソや強弁を重ね、追及を受けても噛み合わない答弁を繰り返すばかりで議論に応じようとしない」というものだった。当時は「実際に安倍総理本人は答弁や議論の能力を欠いているのではないか?」という疑いも生じたほど、それはひどいものだったことをいま覚えているひとはどれぐらいいるだろうか。

もしあの頃のことを覚えているならば、どうやらこのオリンピックの開催が医療体制の逼迫をつうじて国民の生命を危険にさらすものになりそうだということが分かってきて以来、日本政府と組織委員会に一貫する態度もまた安倍政権のそれと寸分違わぬものであることが分かるだろう。非論理的というよりは無論理的であり、不誠実であり、無責任なその態度は、しかし結局はこれこそが戦後日本の最終的に行き着いた社会の戯画であると思えば妙に納得のゆくものである。私たちはむしろ日常的にその社会を呼吸し、代謝して、排泄しているからだ。

私は「いまの日本に不足しているのは歳出ではないからオリンピックは要らない」という立場で招致活動から一貫してブーイングを送りつづけてきた「売り方」なので、開催決定以来重ねられてきた失態とその上塗りともいうべき場当たり的な対応には「ほれ見たことか」と高みの見物をしてもよいぐらいだったはずなのだが、正直なところ気持ちはあまり浮かばれない。それはオリンピック開催がいましも私たちの心に爪を立てているのはその損害によってではなく、「これはいつかきっとまた、もっとひどい形で繰り返されることになるだろう」という不吉な予感によってだからだ。パンデミックの発生以来、オリンピック中止の検討を頑なに拒む意思決定者たちの姿に「インパール作戦」を重ねるひともいたが、これが太平洋戦争の過去ではなく私たち自身の未来に対する暗喩であることが理解されぬかぎり、この未来はすでに確定していると私は思う。

しかしいずれにせよ予想に基づいてとったポジションが完璧にハマったにもかかわらずまったく儲からないどころか損をしているというミステリー自体は、私のような素人投機家にとってむしろ日常だといってよい。

オリンピックは始まれば、すぐに終わる。
そうして次の大波がすべてを奪っていくまでは、私たちはまた大海に背を向けて、せっせとここに砂の城を建てようとするだろう。
だがそれでも誰かがいつも海の向こうを見つめている。ここに生活を築いてはいけないと訴えるひともいれば、自分は山手に暮らしながら海辺の土地を売りつける者を指弾するひともいる。
なにかを始めなければならないとするならば、こうしたひとびとの声に敬意をもって耳を傾けることであろうと思う。自分にはなにもできないからといって、怠惰に生きることはない。自分ひとりの真摯さをもって世界に胸を張るということ、それが誇りだということを忘れず取るに足らない生を真面目に生きていきたい。

質問箱にご質問をいただいている。

“責任をとる”とはどう定義しますか?
また「こいつは見事に責任をとった!」と思えた人はいますか?

質問箱、もともとは「いま好きなひとはいますか?(もしかして私?)」みたいなことを質問するからわざわざ匿名なのだと思うのだが、ネット論客108星にも入れない私のようなアカウントに向かってこうした“本質的”なご質問が日夜寄せられておりまったく感謝の念に堪えない。これは本当だ。

「責任のとりかた」についてのでっかいでっかいクエスチョンマークはだいたいにおいて「責任をとって辞めます」と職を辞す人間がいる一方、「この件に一定のケジメを付けるのが私の責任のとり方」と開きなおって職にとどまるひともいるという怪現象に端を発している。これは「責任のとり方」の問題というよりは、そもそも「責任」の扱い方に起因する問題だ。

実は、責任にはまず「果たす」と「とる」という異なるふたつのかかわり方がある。
「責任を果たす」のは、それが何であれ何らかの役割についているひとには誰にでも可能で、やるか、やらないかだけの問題だ。その一方、「責任をとる」のは誰にでもできることではないし、これは立場によって最初から決まっていることなので、いくら「俺が責任をとる!」と言ってもとれないひとにはとれない。責任は、誰もとらないことよりも最初からとれない人間が「俺が責任をとる!」と言ってあたかも自分にその資格があるかのように物事をすすめることの方がはるかに問題で、害が大きい。

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