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生きる資格|2024-03-13

今回は、うでパスタが書く。

資格らしい資格というものを持たずにここまで来てしまった。
履歴書でいえば「普通自動車一種運転免許」とTOEICの点数ぐらいしか書くことがない。賞罰もない。これは就職活動のとき(それも二回目の就職活動で、一回目にはTOEICも受けたことがなかった)以来、実に四半世紀ものあいだ変わらないのだ。

学校をやめてアルバイトで潜り込んだ会社(「潜り込んだ」というほど立派な会社でもなく面接は一分ぐらいで終わったのだが)ではみんながみんなその調子で、いちばん仕事のできたひとつ年下の男はバックレすぎてフルキャストを馘になっていた。この男はそれから五年ぐらい経つと社長になるのだが、ある日何かに目覚めた総務から「こちらで確認しましたら社長の履歴書が紛失しているようですのであらためて履歴書を書いていただきたく」などと言われており、えっ、と絶句しているので爆笑していたら私のところにもおなじ申入れが来て真顔になってしまった。

資格というのは単にいまそのひとに何ができるかを示すのみならず、いままでどんなことをしてきたか、何をしてどんな道を進みたいと考えてきたのかを示す大きなひとつの干涸らびた川の跡だ。ひとには資格を食み、それを掬って飲むことはできない。しかしたしかにそこを流れた時があり、営まれた暮らしがあったことを手応えとして私たちは読み取ることができる。
私にはそれがない。
資格を無しにここまで生きてきた、といえば何か無頼か天才肌のようにも響くこともあるだろうが、実際にはひとつひとつ目の前のハシゴをつかんでは自分を引っ張り上げ、意志的に人生を築いていくということができないまま流れ流されてここへたどり着いただけだ。流れがだいぶ強かったことは事実だが、これを一言でいえば遭難か、よくて漂流にすぎない。人生を航海に喩えるひとが多いとすれば、あきらかに私のそれは失敗しているのだ。

時すでに遅し、というにこれほど似つかわしいこともないが、割と最近、「すべてが手遅れだ」と気付いた私は、「それでもやり直す」ことを心に決めて、ある程度なんにでも挑戦することにしている。
人生における資格の本質が「それで何ができるか」にはないとするならば、資格をとったあとそれでどうなるということまでは問わなくてよいだろう。その資格をとる理由だけがはっきりしていればいいのだ。

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