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トリックを見破れ! | weekly

「大きなドラムロールの音。
スポットライトを浴びて登場するマジシャン。
派手な効果音と舞台装置。消える人間。突然湧いてくるウサギの群れ。
私はテーブルでシンプルに展開されるマジックも、派手な仕掛けで驚かせてくれるマジックショーも大好きだ。次に何が起こるのだろう、一体どうなってしまうのだろうか、と目の前で繰り広げられるスペクタクルに釘付けになってしまう。周りで一緒に見ている人も同じように感じているのが分かる。あ、っと驚く瞬間、全員の注意がマジシャンに集まる。白い手袋をした、優雅に動き回るその手から生み出される驚きのトリック。そう、大事なのはトリックが周到に仕掛けられていることだ。じっと見ていても、なぜそうなっているのかにわかには分からない。こっちを見て、次はこっち、お次はこちらに、と気持ちよく注意を誘導され、気がつくと最初にいた場所から随分と遠いところに来てしまう。最初に見ていたウサギは一体どこに行ってしまったのか。そして、私はなぜここにいるのか。」
彼女はタブレットから顔を上げると「マジシャン、というのは魔法使いよね。」と言った。彼女が朗読していた本に書かれているマジシャンはこの場合は魔法使いではなく、手品師だろうと思ったが、ぼくは、そうだね、と答えた。高度な手品は魔法のように見えたであろうし、それが本当は魔法かどうかというのは重要なことではない。本当に重要なこと、というのが何かというのは世界がこうなってしまってからは誰にも分からなくなってしまった。どこに住んでいるか、どういった暮らしをしているのか。普通とはなにか。当たり前の人生とはなにか。いわゆる人類の文明というものはあらかた廃墟になってしまったし、資本主義の象徴のように言われていた湾岸のタワーマンション群も当然のように廃墟になってしまった。それが泡のように消えてしまった事自体のほうがぼくにとっては魔法のように感じられたものだが、もしかしたらそんな社会が目の前にあったということの方が魔法だったのかもしれない、よくできた手品のように、心地よい余韻を残してパッと消えてしまう世界、というのは、大昔の人間が夢想したようにもしかしたら誰かの想像の産物でしかなかったのかもしれないし、それを検証することはもうできないのだから。

ーー

キノコです。

交換日記ではないので先週のうでさんの話に応える必要はないのですが、それでもあれを読んでいて思い出した話がありました。かつてキノコがクライアントのもとに日々通っていた頃のことなのですが、そこには日本一という評価をされた社員食堂がありました。そもそも社員食堂の何が日本一なのかというのも忘れてしまったのですが、確かに見晴らしはよく、清潔感のあるスペースではありました。とはいえ、クライアントに気を遣いつつ、あまり高価なものや高カロリーなものは食べられないなと思いつつ食べたのは味の薄めな給食という印象でした。
食べるのお好きでしたよね?○○さんからはグルメだと聞いてますよ。弊社の社員食堂どうですか?みたいな、想定問答集にありそうな質問は嫌がらせなのではとも感じたのですが、そのクライアント氏の日頃の言動を思い返せばおそらくは純粋に良かれと思っていたのでしょうし、それに対し適当に答えておけばいいものを、終始曖昧な返事をしてしまったことを反省していないことを反省すべきなのでは、と今になって思い返した次第です。

日本で一番云々というのは、当時社員を大事にする会社、人材を人財というような会社が増えてきていたこともあり、社員のことを考えていますよ、というアピールを第三者にさせるという社員向けのコミュニケーションの一環だったのだろうと今になってみれば理解できるのですが、そういったロビー活動のようなゲスい事を考えられなかった当時の若いキノコは素直に、日本一ってすごいなー日本で一番すごい社員食堂なんだーと感動をしていたわけで、あの感動は紛れもない本物だったと思います。社員食堂というカテゴリーにおいては日本一、というのはカテゴライズの妙というか、まあ今でもそういうテクニックは多々ありますが、日本人はランキングが好きとはよく言われるものの、社員食堂までランク付けするのかよ、とは思いますね。

さておき、日本一というだけあってうでさんのいうような奴隷感はなかったのでまあそこは救いなのかもしれませんが、11:50という毎日決まった時間に電気を消され、ぞろぞろと列をなしてエレベーターを待ち、食堂に向かい、A,B,Cの三択よりは多いものの、トレーを抱えつつ限られた選択肢からメニューを選ぶというのは程度の差であって、根本的な違いではないのだろうなと思います。給食ついでに思い返せば、そもそも学校での給食というのも、メニュー選択の自由はなかったわけで、学校というのが奴隷養成所だと言われてしまうのも仕方がないことなわけです。自由とは選択の自由のことであり、だからこそ、嫌なものを嫌だと言う表現もまた、言う言わないという選択が可能だからこその自由なわけです。選択とは決定であり、可能な世界のあり方から一つを選び取るということで、つまり、今日は麺にするか、といった不可逆的な世界の固定なわけです。

ランチに何をいつどこで誰と食べるのかを選べるようになるというのは、好きな時にとんかつを食べられるようになりなよ学生さんという話の延長線上にある話で、つまり、自由を得よということです。


というわけで、本日は操作される心という話です。

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