曲紹介:His Mercy Is More
今一番刺さる曲、His Mercy Is More を紹介します。日本語のバージョンも出始めていますが、ここではオリジナルの歌詞をしっかりと味わってほしいと思い、原詩の日本語訳をご紹介します。日本語になりきらない部分は筆者個人の意訳となりますが、意図は捉えていると思います。
曲情報
タイトル:His Mercy Is More (主のあわれみはより深く)
作詞・作曲: Matt Boswell and Matt Papa
演奏:Shane & Shane
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オリジナル歌詞
邦訳
解説
この曲の根底にはエレミヤの記した哀歌3章22節の言葉を深く見て取ることができます。そこには次のように記されています。
繰り返し
どれだけ多くの罪を犯したとしても、あわれみの神は私たちに相応しい裁きではなく、私たちに最も相応しくない赦しを与えてくださるということが歌われているこの曲は、私たち自身の罪深さ、そしてその罪よりもはるかに深い神のあわれみの素晴らしさを正しく認識することによって、いかに神を讃えるべきなのかが<繰り返し>部分で宣言されています。ここに出てくる最初の "His mercy is more" は、「私たちの罪に勝るあわれみ」(His mercy is more "than our sins") と意訳することができるでしょう。どのような罪を犯したとしても、どれだけ罪を積み重ねていたとしても、神のあわれみはその罪すべてを覆い尽くすものであるということは、罪を犯さないでいられない私たち人間にとってどれだけ素晴らしいメッセージであるのかを考えさせられます。
一番から三番まである歌詞では、この神のあわれみがどのように私たちに注がれているのかをそれぞれ違う角度から解説されています。
一番
訳では「神」を暗に主語にしていますが、原詩では「何という愛なのでしょう!」という形で「愛」主語となっています。「私たちが犯した幾多もの過ちを思い出すことのない」神が持つ「愛」に対する感嘆で始まる一番の歌詞は、神が罪を赦すとはどういうことなのかを私たちに教えてくれます。次のラインにあるように「すべてを知る全知なる神」は私たちの罪を忘れることがありません。それをなかったことにするわけでもありません。神がなさるのは、数々の罪を思い起こさないということです。どれだけその量が多かったとしても、それを「底も岸もない海に投げ捨てる」と歌われています。底があれば積み上げられていつの日か海上に罪が見えてくるでしょうし、岸があれば、海を埋め尽くす程の罪が岸に到達することもあるでしょう。つまり、神は私たちの犯す罪の「総和」がどれほどであったとしても、赦した罪に対して再びそれらを持ち出すことがない方であると告げているのです。あわれみ深い神はこのように私たちを愛してくださり、ご自分の民とした者たちに対して、常にあわれみのうちに赦しを与えてくださっているのです。
二番
二番も原詩の主語は神ではなく「忍耐」です。ここで出てくる "roam" は「歩き回る」や「放浪する」といった意味のある言葉で、神の下に来ることを拒み、罪の中でさまよい歩く私たちの姿を表現しているものでしょう。「いったいどのような忍耐がいつまでもさまよい歩き続ける私たちを待ち続けるのか!」ということがここで歌われています。神には私たちを救わなければならない義務も理由もありません。聖なる・義なる神は、私たちが最初の罪を犯した瞬間に燃える火の池の中に投げ込んで当然の方です。しかし、神は愛なる方でもあり、私たちが主の前に悔い改め、立ち返ることを待ってくださる方なのです。単に受動的に待っているだけでなく、この方は私たちをご自分の家に戻ってくるように父として私たちを「招いて(または呼びかけて)」います。それは私たちが招かれるに相応しい価値があるからではありません。主が招かれるのは「最も弱い、最も卑しい、最も貧しい者」なのです。自分の無力さを理解し、自分の汚れを知り、いかに自らの手で救いを得ることができない霊的に破綻した者であるのかを求める者を、神は招いておられるのです。
三番
三番の歌詞はまさにクライマックスと呼べるような内容になっています。比類ない愛と忍耐を持つ神が、どのようにして罪人である私たちをご自分の下に招き入れることができるのでしょう。それは、他でもないキリストの御業のゆえです。"What riches of kindness Christ lavished on us" を「何と豊かな愛を」と訳出していますが、直訳すると「優しさの富(宝)」などとなるのでしょうか。キリストが惜しみなく・溢れんばかりに("lavish" はそのような意味があります)注いでくださっている優しさ・親切・配慮の素晴らしさが主題となっています。このキリストの愛は罪の代価として支払われたキリストの血、捧げられたキリストの命を通して私たちに注がれています。これは私たちが本来ならば支払わなければならなかったものですが、キリストが代わりにその代価を払ってくださったことによって、罪の報いは私たちから取り除かれたのです。確かに救いは私たちに無償で与えられるものですが、この救いはキリストの死という最も高価な犠牲をもって私たちに与えられているものなのです。これが主のあわれみの深さ、大きさであり、だからこそ私たちの罪がどれほど大きく、多かったとしてもそれをさらに超えるほど素晴らしいものなのです。
まとめ
Praise the Lord! His mercy is more. まさにここに私たちの希望があり、喜びがあり、確信があります。私たちは大なり小なり様々な罪を犯し生きる者です。しかし、主に立ち返る者には常に赦しがあることを私たちは忘れてはなりません。キリストの十字架での御業と死からの復活は、救い主であり、主であるイエス・キリストを信じ、従うすべての者にあらゆる罪からの赦しを与えるのです。「主を褒め讃えよ!」まさにそれ以外のことを私たちはすることができません。
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