疑い深かった弟子たち
復活祭(イースター)まで残り一ヶ月ですが、復活と言われてもなかなか信じられない人も多いことでしょう。
イエスの弟子たちもそうで、特にトマスは疑い深い人の代名詞になっているほどです。
ヨハネ20章の内容を簡単に説明すると・・
復活の後、イエスは弟子たちが集まっている部屋に現れたのですが、トマスだけそこにいませんでした。
後で他の者たちから話を聞いたトマスは、イエスの手や脇腹の傷に指を入れるまで信じないと言い張ったのです。
それから一週間ほど経ち、トマスも部屋にいる時にイエスが再び現れ、挨拶も早々に、トマスにこう言いました。
あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(20:27)
トマスの頭の中には、たくさんの思いが一気に駆け巡ったことでしょう。
〈私があんな失礼なことを言ったのを、主はお見通しなんだ。それなのに、私が信じられるように、傷に指を入れてみなさいとおっしゃる。何という愛だろう。〉
もう傷口を確かめる必要などありません。
それどころか、雷に打たれたようにものすごいことに気づきました。
目の前にいるイエスがどんな方であるかを悟り、こう呼びかけたのです。
わが主よ、わが神よ。(20:28)
弟子たちはそれまでもイエスを主と呼びはしましたが、「わが神」と呼んだのは、トマスが初めてです。
あれほど疑っていた人が・・いえ、疑いの深みにまで行ったからこそ、これほどの気づきがあったのかもしれません。
実はトマスだけではなく、その前にイエスに会った弟子たちも、手と脇腹を見てから復活を信じています。
それまで人々を恐れて隠れていた弟子たちなのに、この時からは大胆な復活の証人になりました。
もし彼らが復活したイエスを目にしていなかったなら、「イエスは復活した」と嘘を言って、殉教していくことなどなかったでしょう。
それこそが、弟子たちが命をかけて私たちに残した復活の証拠です。
私たちは復活のイエスを見てはいませんが、弟子たちの言葉と行動から、それを信じることができ、それは幸いなことです。
イエスもトマスにこう言われました。
見ないで信ずる者は、さいわいである。(20:29)