見出し画像

感謝の気持ちを言葉と行動に

昨日は、多くの教会で収穫感謝礼拝が行われました。

現代においては、農業をされている方でない限り、収穫の喜びを直に感じることはあまりないかもしれませんが、この実りの季節に、すべての恵みの源である神に感謝をささげるのはいいことです。

サンクスギビングデー

アメリカでは、11月の第4木曜日が感謝祭(サンクスギビングデー)と呼ばれています。

その起源は、今から400年前、イギリスからアメリカに清教徒たち(ピルグリム・ファーザーズ)が移住してきたことにさかのぼります。

最初の年は収穫に乏しく、生活にかなり苦労しましたが、翌年は地元のインディアンの助けにより、多くの収穫を得ることができたので、彼らを招待して、共に収穫を祝い、神の恵みに感謝したとのことです。

主が良くしてくださったことを忘れない

一つ覚えておきたいのは、清教徒たちはすべてが順調だったから感謝したわけではないということです。

その年の収穫は良かったものの、移住して半年で多くの人が命を落としていたし、全般的な状況はまだまだ厳しいものでした。

それでも、彼らは失ったものよりも持っているものに目を留め、感謝をささげることを選んだのです。

彼らの感謝の気持ちは、必ずしも「嬉しい」「楽しい」という感情からではなく、大変な環境にあっても助け導いてくださる神への信仰と信頼から生まれました。

もし、主の恵みよりも、厳しい状況の方に目を向けていたら、感謝よりも不満の気持ちが強くなっていたかもしれません。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇103:2 新改訳2017)

そのためには、主が良くしてくださったことを当たり前と思わず、感謝すべきこととして心に留める必要があります。

感謝の気持ちを表す

サンクスギビングとは、神への感謝の気持ちを、言葉や行動で示すことを言います。

ルカの福音書17章には、イエスが重い皮膚病にかかった10人の人に出会い、彼らを皆癒やされた話が記されています。

目に見えるしるしは何もなかったけれど、イエスから、祭司たちのところに行って、病気が治ったことを確認してもらうよう言われて、その通りにすると、行く途中で彼らの体は癒やされました。

でも、イエスに感謝を伝えに戻ってきたのは、たった1人だけでした。(ルカ17:11-19

他の9人は、なぜ感謝を伝えに来なかったのでしょうか。

そもそも、感謝していたのでしょうか。

イエスのおかげではなく、たまたま病気が治っただけだと思ったのでしょうか。

それとも、感謝はしているけれど、イエスはもう同じ場所にはいないだろうから、探すのが大変だと考えたのでしょうか。

あるいは、もう遠くまで来てしまったので、わざわざ戻るのは面倒に感じたのかもしれません。

感謝のいけにえ

感謝のいけにえを神にささげよ。
(詩篇50:14)

旧約時代には、神に罪の赦しを求めたり、感謝を示したりするために、いけにえをささげていました。

でも、この詩篇では、動物のいけにえのことを言っているのではなく、感謝自体のことを、神にささげるいけにえと表現しているようです。

新約聖書にも、似たような表現があります。

わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。
(ヘブル13:15)

いけにえ(犠牲)には、いくらかの負担が伴うものです。

重い皮膚病から癒やされた人たちにとっても、感謝を伝えるためにわざわざ戻ってイエスを探すのは大変であり、そうするほど感謝してはいなかったのかもしれません。

そして、戻ってきたあの1人にとっては、そのような行動に出るほど感謝したかったということなのでしょう。

また、物事がうまく行っていない時には、つい不満が口をつくものですが、あの清教徒たちは、そのような不満よりも、困難の中に見つけた神の恵みや、彼らを助けてくれた先住民への感謝を表すことを選びました。

礼拝や賛美、奉仕や献金なども、ただの義務としてではなく、感謝の気持ちの表れとして行うことができます。

私たちは、神(そして周りの人たち)が良くしてくださったことに気づき、感謝しているでしょうか。

その気持ちを充分に言葉や行動で示しているでしょうか。

あの9人のようにではなく、感謝の気持ちに満たされ、その気持ちを行動に移した1人の人のようになれますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?