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今年のイースター(復活祭)の頃に私がよく聴いていた曲の一つに、『Because He Lives(主が生きておられるから)』という賛美歌があります。日本語では、『主は今生きておられる』、『み子イエス世人のため』、『私をゆるすために』などの題名で訳されています。 この賛美歌は少しユニークで、イエスの復活を歌っているけれど、2番の歌詞が親子についてのものになっています。ほとんどの日本語訳では省かれているのですが、実は、この賛美歌で最初に書かれたのは、この部分でした。 簡単に翻
私たち人間は、「神だったら、こうするべき」という自分の考えによって、神のやり方を裁くことがあります。それは単純に、神のやり方や知恵が私たちのやり方や知恵をはるかに超えているのに、自分を神と同等か神の上の立場に置こうとしているだけなのですが。(イザヤ29:16; 55:8-9) 「神だったら、こうするべき」と言う時、それはそもそも、その人には神を信じる気持ちなどないからという場合がよくあります。イエス・キリストも、十字架にかけられた際に、自分を神の子と信じない人たちから、「も
クリスチャンにとって、春と言えば、イエス・キリストの受難に思いを寄せながらイースター(復活祭、今年は3月31日)を待ち望む季節です。 受難とは、イエスが裁判と処刑によって、計り知れないほどの苦痛を精神的にも身体的にも味わったことを言います。裁判は短時間のうちに何度も行われており、祭司長や議員たちはイエスが死刑に値するとしましたが、ローマの支配下にある彼らには処刑の権限がなかったため、総督ピラトのもとにイエスを送りました。 ピラトは、「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみ
「生まれ変わったら、どんな身体になりたいか」という、アンケート結果をまとめた記事を読んだことがあります。 スタイルがいい、脚がきれい、立派な筋肉、ハリのある肌など、それぞれの回答者が思い描く、完璧な「理想のボディ」がリストアップされていました。当然ながら、傷のある身体が欲しいという人は一人もいません。 さて、イエス・キリストが復活された時、それは単に息を吹き返したわけではなく、もはや死ぬことのない、新しい身体に変わっていたので、すべてを完璧な状態にすることもできたでしょう
ドラマやスポーツ、また人生においても、たくさんの敗北や問題の末の逆転勝利には、私たちの心を感動させるものがあります。 聖書には、表面上は失敗や敗北だらけであっても、実は目に見えないところで神が働いておられ、その結果、人生どん底状態からの逆転を遂げた人たちがたくさん登場します。 ヨセフやヨブなど、この世にいる間にそれが起きた場合もあれば、「金持ちとラザロ」のたとえ話(ルカ16:19-31)のように、この世を去ってからの逆転劇もあります。 中でも最大の逆転劇であり、人類の歴
今日はイースター(復活祭)ですね。 今から2千年ほど前、イエスはゴルゴタと呼ばれる場所で、二人の強盗とともに十字架につけられ、苦しみながら息を引き取られました。 人類のために来られた救い主をそのように殺してしまうなんて、それは地上でもっとも悲しい日と言えます。 でも、それで終りではなく、イエスは三日目に復活されました。 その早朝、女性信者たちが遺体に香料を塗ろうとして、イエスの納められた墓へ行きました。 すると、横穴式の墓の入口にある大きな石が転がしてあり、イエスの
先回に続いて、イザヤによるキリストの受難の預言とその成就を見ていきたいと思います。 口語訳からの引用がメインですが、よりわかりやすい訳がある場合はそちらを用いています。 (罪は、「咎(とが)」「背き」「不義」といった言葉でも表現されています。) 「病」と「悲しみ」は、それぞれ「わずらい、悲しみ」「痛み、苦しみ」とも訳されています。 イエスは私たちの悲しみや苦しみを担うために、また、私たちに代わって受難の苦しみを味わうために、私たちと同じ肉体を取って、この世に来られまし
昨日は棕櫚の主日と呼ばれ、旧約聖書に預言されていた通りにイエスがロバに乗ってエルサレム入りされたことを記念する日でした。 それからイエスは裁判を受け、処刑、埋葬されるという多くの苦難を味わったため、イースター(復活祭)前日の土曜日までが受難週と呼ばれています。 イエスがそのような苦難を承知の上でエルサレムに行かれたことは、復活後に弟子たちにこう語られたことからもわかります。 「すべての預言者」の中でも、紀元前8世紀に活動した預言者イザヤは、イエスについて多くの預言を残し
最近、世界で起きているさまざまな問題について考えていて、伝道の書(共同訳では「コヘレトの言葉」)の著者の気持ちがわかる気がしました。 空しく不条理な世界伝道の書は人間的視点に立って人生を説明しており、そのような人生観からすれば、たしかにいっさいが空しく、不条理であるように見えます。 たとえば、世界がどれだけ平和を求めようと、たった一人の決断によって戦争がもたらされることがあります。 こちらからは周りに優しく接しようと努めていても、誰かの愛に欠けた言動によって傷つけられる
現在、日本を含め、世界の標準になっている暦はグレゴリオ暦と呼ばれますが、それが作られた理由は、復活祭(イースター)の日取りを決めるためだったと知っていたでしょうか。 復活祭の日取り復活祭とは、イエス・キリストの復活を祝う日です。 十字架にかけられたのは過越の祭りの最中のことで、 この祭りは通常、春分の後の最初の満月の頃にあたります。 そして、その数日後の日曜日に復活されたので、日曜日は主日(主イエスの日)と呼ばれる大切な日であり、礼拝日また休日となりました。 そこで、
聖書を読んでいると、まるで自分にあてて書かれたかのような言葉に出会うことがあります。 初めてそう感じたのは、この言葉でした。 それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、[イエスが]ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。(ヘブル2:14-15) おそらくほとんどの人は、死を頭の隅に追いやり、あまり考えないようにして生きていることでしょう。 私の場合、6~7歳の頃だったでしょうか、死についてかなり意識するようになりま
昨日の棕櫚の主日で始まった受難週は、イエス・キリストが地上での最後の一週間に味わわれた苦難を思う大切な時です。 どれほど想像力を働かせても、十字架刑の苦痛や、全世界の罪を身に負って死ぬ苦しみと悲しみと恐れのすべてを完全に理解することはできないので、ただただイエスの犠牲に感謝するばかりです。 私たちがそんな極限状態で祈る祈りには、正直で率直な本音が現れるものですが、イエスの場合はどうだったのでしょう。 十字架刑の前夜から当日にかけてイエスが祈った祈りが4つ記録されているの
福音書にはイエスが十字架上で語った言葉が7つ記録されていますが、私がクリスチャンになりたての頃、特に心に響いたものがこれでした。 イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46) イエスは私たちの罪をすべて身に負い、罪びととして死なれたのですが、処刑された体の苦しみとともに、神に捨てられたという心の苦しみも味わいました。 私たちも苦しみの極みにある時
復活祭(イースター)まで残り一ヶ月ですが、復活と言われてもなかなか信じられない人も多いことでしょう。 イエスの弟子たちもそうで、特にトマスは疑い深い人の代名詞になっているほどです。 ヨハネ20章の内容を簡単に説明すると・・ 復活の後、イエスは弟子たちが集まっている部屋に現れたのですが、トマスだけそこにいませんでした。 後で他の者たちから話を聞いたトマスは、イエスの手や脇腹の傷に指を入れるまで信じないと言い張ったのです。 それから一週間ほど経ち、トマスも部屋にいる時に