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背中を押してくれる言葉たち#1

 みなさんこんばんは。私は蓮尾駿斗(はすおはやと)と申します。私は去年まで京都工芸繊維大学の大学院で、現在は国生みの島である淡路島の設計事務所で建築設計を学ぶ、小さなころからものづくりが大好きな25歳男性です。

 25年しか生きていない私ですが、小さなころから好きだったものづくりで多少なりとも対価をいただくようにもなりました。とてもありがたいことです。ただ、ここまでものづくりに固執し、周囲の理解も少ない中、支えてくれたのは大切な人たちの大切な言葉たちでした。

 私が老いて今の記憶を失っても、みんなに感謝できるように一つずつ言葉を残しておこうと思います。今回が1回目。

 1回目にお話しするのは、小学生の時におばあちゃんからもらった

「あんた、絵描きさんになりなさい」という言葉です。

身長も低くて運動も得意ではなかった小学生時代。それもあってか自分に自信がなく、引っ込み思案な子供でした。たくさんある習い事は自分にはあまり合ってなく、水泳と英会話がある金曜日を考えると一週間が憂鬱だった。

両親が共働きだった蓮尾家では、金曜以外の平日は下校した後夕方まではおばあちゃんと過ごすのが私の毎日だった。おばあちゃんは怒ると怖いけど、優しくて好きだった。そんなおばあちゃんの怖さとやさしさは、おじいちゃんを若くに亡くして、働きながら3人息子を育てた経験によって身についたものなのだと思う。

おばあちゃんはいつも身なりをしっかりしなさいと、学校の朝には、衣服の着こなしに口を酸っぱくしていた。それも当然、3人息子を育てるため、何年も衣服を作る仕事に携わってきたからだ。

子供の時は、そんなことは知らなかった。ただ、おばあちゃんがすきだった。

作るを仕事にしてきたおばあちゃんの血を継いでなのか、何か作るのが好きだった。図工の時間が好きだった。土曜の10時から始まる習字の習い事も好きだった。お母さんのトールペイント教室についていくのも好きだった。

交通安全ポスターや、図工の紙版画、書道のコンクールに入賞もした。それでも、自分に自信はなかった。作るのは好きだが、たくさんの人の前で表彰されるのが好きではなかった。

作るのは好きだった。子供時代の時間は無限だった。自習ノートにオリジナルの江戸時代偉人図鑑を書いても、オリジナルカードバトルを作っても、オリジナルメダルゲームを作っても、時間は余る。そんなある日、着たい服を描いていた。次男の私はおさがりしかきたことがなかった、絵の中で夢を見たかった。そんな夢をなぜかおばあちゃんにも見せていた。

おばあちゃんは「こんなかっこいい洋服が描けるとね、こんな素敵な絵が描けるならあんた絵描きさんになりなさい」と言ってくれた。

嬉しかった。衣服を作っていたおばあちゃんが私がデザインした洋服をかっこいいと言ってくれたからではない。描いた絵を素敵だと言ってくれたから。見えない誰かがが良いということよりも、目の前の人が喜んでくれることが、私にとって、私のものづくりにとって大事だと気付いた。大好きなおばあちゃんが、私の絵のファン第一号になった。

それから、自分の望む世界を絵にするようにになった。同時に建築の世界にも入り込んでいった。スケッチで試行錯誤したり、思考をイメージ化するのがとても得意になっていった。相手が心を動かす顔がまた見たいからだ。

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大学院最後の設計(熊本のミカン畑の放置されたミカン小屋5棟の改修を通した新たな農業と人の関係性の提案)のスケッチ




86歳のおばあちゃんは、足を怪我して入院している。この二、三年は実家に帰っても、おばあちゃんと過ごす毎日は戻ってこない。大学で設計課題で評価されても、建築家の人とお話したことも直接話すことはできない。だから、毎回おばあちゃん宛に手紙を書く、もちろん絵も添えて。

そんな手紙も書くのをやめて、紙の上に描いた夢を現実してそこでおばあちゃんと昔話をすることが直近の計画だ。


夢は唱えるといつか叶う、と言うように、おばあちゃんも夢を描き続けるといつか叶うことを知っていて「あんた絵描きさんになりなさい」と言ってくれたんだろう。

大好きなおばあちゃんありがとう、これからもいばらの道でもちょちょいと超えてがんばるよ


ここまで読んでいただきありがとうございます。
みなさんの背中を押す言葉は何ですか?教えてください。
思考・作品に共感した方、ぜひ応援よろしくお願いします。


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