「かわいいフェミニズム」 宣言

「私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました。…(中略)今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でもセクシュアリティの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。」

 著名な社会学者であり、日本のジェンダー研究を牽引してきた某フェミニストは今年2019年の4月にスピーチでこう語り、日本中で話題になりました。フェミニズムとは単なる思想ではありません。フェミニズムは、差別の中から生まれた怒りを原動力にした革命運動です。傷ついた女性たちの戦いが、現在を生きる女性たちに権利を与えたのです。

 けれども、私はかつての「強いフェミニスト」たちと同じ気持ちで怒りを表明することに戸惑いを覚えています。

 1986年。男女雇用機会均等法が施行されました。私はその前年に生まれ、差別と戦ってきたフェミニスト達の努力が実を結び始めた時代のなかで育ったのです。たしかに現在でも男女の不平等は残っていますが、かつてに比べて女性の権利はある程度達成され、人々の意識は変わりつつあます。闘争の時代から、比較的平和になった時代。このような温度差が生まれつつあるなか、フェミニズムは同じ姿のままでよいのでしょうか?

 彼女はスピーチのなかで、こんなことも話しています。
 

「『かわいい』とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。」

 「かわいい」は日本において女性を評価する圧倒的な価値観です。事実、冗談ではなく、かわいいだけであらゆることが解決します。そして、強いフェミニスト達はこの状況に眉をひそめてきました。
 しかし一方で、日本社会において「かわいくあること」は、女性にとって最も生きやすい方法でもあります。だからこそ、現代の女性の生存戦略として手放せない手法であり、それこそが強いフェミニズムの拡がりを阻んできた一つの要因にもなっています。男性優位の社会で、必死に努力して男性と肩を並べるよりも、画一的な可愛さを実現する方が効率がよいのです。

 かつてのフェミニストたちは「かわいくない女」とレッテル貼りされてきました。それは、彼女たちが革命のため、権利のために「かわいい」を押し殺して戦ってきたことの代償です。「かわいい女」であれる現代の私たちの環境は、犠牲を払って彼女たちがもたらした戦利品なのです。女性の権利が認められつつある新しい時代のフェーズにおいては、「かわいい」さえ武器にして利用する新しいフェミニズムを打ち立てる必要があるのです。

 西洋のフェミニズムは、長い歴史と伝統のなかで育んできた人権思想の上にありますが、近代になって輸入した借り物のそれでしかない日本では、同じようにフェミニズムを普及し浸透させることはできません。

 女として生き抜く上で「かわいい」が手放せない日本、そしてフェミニズムの伝統もない日本で、「かわいい」で社会をハックしながら生きる可能性を私は模索しています。

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