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あの日の乾杯、これからの乾杯。

「先生っ!ホントにやるの?」

「やるさー。オレ夢だったんだ」

「ジュースこれで足りる?」

「バレたら怒られるよねえ…」

「洗っとけばバレない!早くしろ!ジュースの後はビール飲むんだから!」

「ひえー。あっちゃん、ほんとにキリンレモン注いじゃった」


ホテルの広くは無いツインルームは、道頓堀帰りのちょっと目の据わった顧問と、同じく道頓堀(それは私たちの故郷とは桁違いの都会で、夜も明るくて人が歩いてて、あらゆるタイプの食事処が並んでいた)で食事を終えてホテルに帰ってきた女子高生でいっぱいだった。

その夜は何もかもに祝杯を上げたい気分だった。全国大会で2年連続で大きな賞を取ったのだ。去年は文部大臣賞の盾だった。今年は主催新聞社の名前を冠した大賞でトロフィー。その2つが実質的に同率1位だった。

さらにスペイン大使館からは大きなカップが贈られた。イタリアの田舎の夏の夜が明けてゆく様子を表した曲は、スペイン大使館の審査員の心を掴んだらしい。

そしてご褒美に、今日の夕食はパートごとに道頓堀で好きな店で食事してきていい♪という。しかし片田舎の高校生は当然だが街に来ていく服など無く、全員制服の集団で繰り出したのだった。

街はキラキラと煌めいて、絶えず大きな音楽が鳴り、呼び込みのお兄さんの威勢のいい声が響く。街をゆく人の速さと来たら、小走りなのかと思うくらい。

グループリーダーのわたしはもはや気遅れていた。後輩がへんな人に絡まれたりしないよう、ドキドキしながら道の真ん中を1列に進んだ。そして萎縮気味の高校生の集団は老舗っぽい落ち着いた店を選んだ。ここなら煩くは無いだろう。

私たちは世間知らずの田舎者だった。老舗の静かな座敷に通されてホッとしたのも束の間、メニューを見て驚いた。た、高い…とても女子高生がお腹いっぱい食べらる金額では無い品々がズラリ。しかし「値段が合わないので失礼します」と店を出る勇気もなかった。

一品料理かコース料理が並ぶ中で、メニューの中でもご飯もののページを見つけ予算オーバーながらも何とか注文をする。とても飲み物の注文は出来ず、お姉さんが淹れてくれた冷たい麦茶でひっそりと乾杯した。あれは道頓堀のフグの名店、つぼらやだったと思う。

そして2時間後、集合場所には今日の夕食体験の成功組とアテが外れた組か入り混じってお互いの経験を披露しあっていた。これは一度は道頓堀で食事をした!という妙な自信と高揚感で、うるさいうるさい。

よくぞ顧問は(既に酔って目が赤かった。嬉し泣きに泣いてきたんだとは後から知った)1人の迷子も出さずに引率したと思う。

お菓子とジュースを買い込んでホテルに戻った私たちは、これからが本番だった。街の喧騒から解放され、田舎言葉を存分に使って感情表現もできる。風呂で汗を流してさっぱりしたら、またお腹も空いてくる。若かった。


みんながそれぞれお菓子とジュースを持って、いろんな部屋に収まった頃、顧問から各パートのリーダーに招集がかかった。無論、指揮者もだ。

「もしかして、説教?」

恐る恐るドアを開けると、ビジネスホテルの狭いデスクの上にはトロフィーとカップが箱から取り出され、燦然と輝いている。ベッドにあぐらをかいた顧問がニコニコして手招きした。

「みんな、オレは嬉しい。1週間前に突然「賞をとるぞ!」と宣言したけれど、お前たちは逃げ腰にならなかった。勇敢だった。やるべきことをきちんとやったな!」

「勇者は讃えられるべきだ。特別だ。このカップで乾杯しようじゃないか!!」


そこで冒頭の騒ぎに戻る。

顧問の言葉を半信半疑、何処かにバレて怒られるのではないかとヒヤヒヤしながら、柔らかな金色に塗られた洗面器大のカップに、キリンレモンがなみなみと注がれた。

わたし達は黄金色のズッシリとしたカップに恐る恐る口をつけて、キリンレモンを回し飲みした。特別に美味しいわけではなかったが、何か不思議な一体感が新たに生まれていた。演奏を通しての一体感とはまた別の、何か。

その後、顧問は悲願のビールをあおって、カップは丁寧に洗われてホテル備え付けのフェイスタオルで磨かれた。

わたし達はこのことをけして口外しなかった。噂にでもなれば顧問が立場をなくすとか、他の部員から自分達が責められるとか、そういう判断もつく年頃だったけれど、親にも言わなかったのは「共犯者意識」があったからだと思う。

暑い夏の日の祝杯を胸に、翌年の春私たちは卒業しそれぞれの道へと踏み出した。

その後数年間は何度かみんなで飲んだり、楽器を手にして集まったりもしたけれど、仕事に、結婚に、引っ越しに、子育てにと、人生の忙しい時期を夢中で過ごしている間はほとんど会うことはなかった。


あれから40年近くが過ぎた。

わたし達は子育てを終えて、親の介護や定年後の生活を肴にまた集まるようになった。

あの頃の話は不思議と話題にはならない。あの強烈な色彩の渦に放り込まれたような一連の経験は語られない。忘れたわけではないし、共通の何かが、今や全く別々の境遇になったわたし達を繋いでいるのに。

わたし達は人生の後半を生きているけれど、かつて親の世代が諦めと共に年齢を受け入れたような気分は無い。これからの可能性を諦めて過ごすのは嫌だと、限られた期間にもまだ輝きは見出せると、そう信じる世代になった。

母校のトロフィールームに飾られたカップは、今でも輝いているのだろうか。




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