住む世界が違うと理も違う

『Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.』
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』より


格差も分断も最初から日本に存在していた

組織的強盗事件が全国を震撼させている。

自分はこの事件で、一つの記事を思い出しました。

8年も前のネタだが、正直言って今でも違和感ないんですよね。
匿名性の高い通信アプリを使っての闇バイト、タタキ(強盗)なんて用語がカジュアルに使われる。
しかも今回犯行に及んだ人間は全員、色々な口実をネタに世間から排除され行き場を無くした人間ではない。そういった人間があっさりと独居高齢者を殺してしまう異常さ。

「もう日本終わってる」と一言で片付けるのは容易い。
だが、この背景には社会ぐるみで「社会に役に立たない人間は排除するか除去しなければならない。でないと国家が持たない」などという(独善的かつ欺瞞に満ちた)壮大な残酷物語がある。


何も持たず、社会から排除される要素たっぷりな若者が失われた20年の中でどう考え、どうサヴァイブするか。

コツコツ働けば暮らしがよくなるという物語はバブルとともに泡沫と消えた。「いつかはクラウン」は「いつまでもWagonR」になり、「そもそも車持つ事が考えられなく」なった。
上がり目なんて期待補正値がゼロ、宝くじですらテラ銭の仕組みがバレちまっている以上、一攫千金を狙うならそりゃ犯罪とかアンダーグラウンドな方向に行くしかなくなるよねって話になる。
いくら法律で締め付けようが、ゼニで縛ろうが、食い詰めた人間にとっては馬耳東風。
我々が社会の底辺をのぞく時、社会の底辺の住人たちもまたシャバを覗いているのだから。

それに比べたら、一昨年辺りから顕在化した『無敵の人』の話なんてまだまだヌルいんですよね。ただの自殺願望の人間の単発的なホームグロウンテロリズムだし。某加藤とか某山上とか、定期的に祀り上げられるけど、それだけ。
ガチの底辺はそれこそ「下流喰い」「闇金ウシジマくん」が真っ青になるレベル、「ナニワ金融道」ですらまだまだ底の上辺レベルの底知れぬ闇。

「『無敵の人』を組織化できたら…」なんて考えは辞めた方がいい。他人とは蹴落とすモノでしかなく、協力し合うモノではないという価値観を徹底的に植え付けられた『無敵の人』世代ことロスジェネを組織化しようなんて考えるヤツは酔狂としか思えない。
共同体という名前のエデンの園から追放された彼らに「再び中間共同体を作ろう」と呼びかけても、学習性無力感に固まった彼らの心の氷河を溶かすには至らない。
そもそも、それなりのカリスマがあるなら事業立ち上げてSNSで上から目線で説教して安楽な人生を送ったほうが遥かにコスパがいい。

どちらにしろ、食い詰めた人間は何をしでかすかわからないのは世の常。だから「最善の治安維持対策は好景気」なんて言われる。
「死んだ方がマシだ」なんて思う人間の増加は社会にとって不利益なのだ。

そもそも、日本という国は昔から『死』が身近だった。

あの小田嶋隆ですら「左に寄り過ぎている」とドン引きさせた「本当の日本民衆史」、ひたすら暗い気持ちにさせられながらも引き込まれる圧倒的な数量と内容。

食うものがないからといって、毒を食うというシチュエーションなんて想像もできないだろう。だが、南西諸島のソテツ地獄ではそれが当たり前にあった。住む世界が違うのだ。

日本残酷物語全5巻を読破すれば、現代日本版ネクロノミコンと一部界隈で絶賛され、かたや政治的正しさという既得権益を持つエセインテリ、シティリベラル、フェミニスト、世田谷自然サヨクといった層からは「禁書目録筆頭」に挙げられる上の書籍への耐性もバッチリである。

(余談だが、自分は上の2冊は同一軸上だと考えている。共に「不可視化された存在」「中央から存在が抹消された存在」を記しているからだ。)

日本には、最初から現在に至るまで、歴然とした格差も分断も存在している。ただ技術の進歩によりマスキングが剥がれただけだ。
住む世界が違う異世界の住人を可視化したとも言い換えられる。

恵まれた環境にいるエセインテリ、シティリベラル、フェミニスト、世田谷自然サヨクから見れば「飯を食うために軍隊(自衛隊)へ」なんて思考回路自体、異次元の生物そのものだろう。

かのように連連と書き記したが、住む世界が違うと理も違うのだ。
我々はその事に対してもっと自覚すべきだが、「多様性」を謳う人ほどその理解が決定的に欠落している。

それどころか、己の世界の理で違う世界の理を断罪しようとしているのは気の所為ではあるまい。


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