「ネオリベ」と「ねおりべ」。

ネオリベラリズムの定義をもう一度。


ネオリベラリズムは1980年代以降から、近代的国民教育から経済成長に資する能力育成が学校教育に求められるようになる。
(その文脈上での教育バウチャー制度があるのだろうが、教育学は専門外なので…)

それを踏まえた上で。

人材枯渇こそが日本の本当の危機、政府が投資すべきは「教育」だ|田原総一朗 @namatahara #note

平成年間、間接的にネオリベラリズムを煽り続けた氏の論調は一貫してブレていない。にも関わらず、後退したように感じられるのは何故か。

それは、日本の大衆がより過激になったからだ。


階級を受け継いでもらいたいという親の願い

基本的に、今の日本の現役世代(特に子育て世代といわれる30〜40代の都市部在住者)には「国による教育投資は無駄」という価値観を持っているのが一定数存在する。

事実陳列罪だろうが、彼らからすれば「自分が他人を蹴落として得た社会階層を子供に引き継いでもらいたい」という意識が強い。

故に、社会階層を上げる重要なツールである公的教育投資は彼らからすれば無駄という判断になる。それが階級の固定化となり、社会の活性化が無くなり、衰退に向かうとしても。


日本の大衆が求めているのは「ねおりべ」

元来、ネオリベラリズムには「将来の成長を確保する為にも教育投資が大事」という考え方がある。
しかし、日本の大衆(少なくとも子育て世代の多く)はそれを望んでいないし、その大衆の支持を受ける形で財務省・文部科学省もどんどん文教予算を下げる動きを見せている。

つまり、今の日本の経済思想はネオリベラリズムに基づいていない。それ以下の、縁故資本主義と財務省主導による緊縮財政と階級固定化の「ネオリベラリズムっぽいモノ」、つまりグロテスクな俗流倭式ネオリベ…「ねおりべ」というべきものだろう。

[Twitterで言ってみたものを再編集]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?