王妃ペルシーナの視線 (1)


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 シリアの首都ダマスカスと北部の重要な都市アレッポを結ぶ位置にあるホムスは、その古名をエメサといい、古代末期に栄えた都市だった。古代ギリシアの文明が地中海世界からインド北部にまで席巻するヘレニズム時代の開始を告げたアレクサンドロス大王の東方遠征のころから、エメサは記録にはっきりと登場し、その中心には太陽神エル・ガバルをまつる神殿があったという。「エル・ガバル」という名称は、ギリシアの太陽神ヘリオスがシリア語化したものともいわれる。

 このエメサの出身である文筆家ヘリオドロス(Heliodoros)は、みずからを太陽神の神殿につかえる司祭の家系のものだと述べている。紀元後五世紀の東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリスで執筆した教会史家ソクラテスは、ヘリオドロスがギリシア北部のテッサリア地方にある都市トリカラの司教で、紀元後四世紀に活動したとする。ソクラテスの言明を支持する証拠はないが、すくなくともヘリオドロスは、世にも奇妙な恋愛小説『エティオピア物語』 Aethiopica を執筆したことで歴史に名前を残したといって良いだろう。全文が現存する小説のなかでは、最古のものに属するといわれている。

 物語は、テッサリア地方の青年貴族テアゲネスと美女カリクレイアの恋愛と困難をきわめた彼らのさまざまな冒険を中心に展開するが、そのカリクレアの出生には秘密が隠されていた。彼女はギリシアの聖地デルポイにあるアポロン神殿につかえる司祭カリクレスに養育されたというが、本当の両親はエティオピア王ヒュダスペスと王妃ペルシーナなのだった。なぜともに褐色の肌をもつ両親から生まれたカリクレイアの肌が透きとおるように白いのか。なぜ国王と王妃は、王女カリクレイアをみずからのもとで養育しなかったのか。

 『エティオピア物語』には、これらの謎を説明するとても不思議な一節が見出せる。それによると、エティオピア王の宮殿のすべての部屋には絵画が掲げられており、そのなかには、ギリシア神話の英雄ペルセウスと女神アンドロメダの恋愛を描いたものもあった。国王と王妃が結婚してからの10年間は、子宝には恵まれなかった。

 とある晩餐のあとに王ヒュダスペスと王妃ペルシーナは非常に眠くなり、ふかい眠りについた。眠りの最中にみた夢にうながされて、王は王妃との行為におよぶ。そしてめでたく身ごもった王妃は、神々に祈りを捧げ、貞淑をまもり、王が世継ぎをぶじに授かるようにつとめた。しかし生まれたのは、エティオピア人の血統には不似合いなほど肌の白い女児だった。この数奇なめぐりあわせに、人々から不貞の誹りを免れないと危惧した王妃は、赤子を司祭カリクレスに託し、ことの次第は秘密とされた。

 驚くことに、王妃ペルシーナ自身は、この不思議な現象の原因を知っていると書簡のなかで告白する:

「私はその理由を知っています。なぜなら王が私との行為におよんでいるあいだ、私は女神アンドロメダの裸像を見つめていたからです。」

 つまり、王女カリクレイアを受胎するときに、王妃ペルシーナは白い肌をした女神アンドロメダの裸像を見つめており、その視線から彼女の霊魂がうけた強烈な力によって胎児に肌の白さが刻印されたというのだ。

 この不思議な一節をふくむ『エティオピア物語』は、おそらくローマ帝国末期にあたる紀元後四世紀にギリシア語で執筆されたわけだが、それより以前にも、受胎時や妊娠時における強烈な視覚の作用によって母親の胎内にある胎児になんらかの特殊な像が刻印されるという考えは、神学者から哲学者、はては文筆家たちまで、古代のさまざまな著作家たちによって記録されている。次節では、どのような見解が述べられていたのかを順次みていくことにしよう。(つづく)

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