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仏教の学び方~依法不依人(経典主義)・因人重法(相承主義)~

「依法不依人」と「因人重法」

 仏教への信仰や領解を深めるには、「依法不依人」と「因人重法」の二つの方法がある。
 先ず「依法不依人」というのは「法に依って人に依らず」、つまり菩薩や祖師の釈文(解釈)を取らずに直に経典などから仏教の信仰や理解を深めていくこと。日蓮上人などはこの信仰態度である。
 次に「因人重法」というのは「人に因りて法を重んずる」、こちらは祖師や人師の釈文(先徳の理解)を重視して仏教を学ぶ方法である。日本の仏教がよく経典以上に宗祖や祖師の言葉を重視しているとして批判があるが、この「因人重法」を重要視しているからである。
 浄土門の法然上人などは経典よりも善導大師の釈文を重視しており、「因人重法」の典型的な信仰者である。

「因人重法」の必要性

 「依法不依人」は『維摩経』などにある文句であるからよく知られているが、「因人重法」という文句はあまり知られていない。これは浄土門の先徳である曇鸞大師の『往生論註』での文句である。
 また『大乗起信論』でも経典があるにもかかわらず何故に馬鳴大士自身が論を造って経典を釈するのかというに、如来の滅後は機根もそれぞれであるから、各人に応じた論や釈が必要であるからと「因人重法」の所以を説いておられる、

問―経典(修多羅)の中に、この教えはすでに委しく說いてあるではないか。どうしてしてここで再び説く必要があるのか。
答―たしかに経典中にこの教えは説いてある。しかし、人びとの能力や実践程度は一様でないし、〔教えを〕受け、理解する条件は別々である。たとえば、如来の在世時には、衆生はすぐれた能力があり、説く方も〔ブッダ御自身であるから〕その身心のはたらきは勝れていた。したがって、〔ブッダの〕完全なお声が一たび聞えると、〔神々、人間あるいは鬼神など〕異類の衆生たちがみな同じように理解したので、論典による解説を必要としなかった。ところが、如来が入滅された後ともなると、〔衆生の能力に次第に差を生じ、〕あるものたちは自力でよく教えをあれこれと委しく聞いて理解し、あるものたちは自力でわずかの経典を聞いただけで多くを理解できる。しかし、
他方では〔経典の教えを〕自分の力では理解できず、詳細な論典の助けを借りて理解できるものあるし、あるいは、〔自分で〕長文の詳しい論典を読むのは煩わしいと思い、陀羅尼などのように短い文句でしかも多くの意味を含む略論を心に希望し、〔それによって〕教えを理解するようなものたちもいる。こういう次第で、本書は如来の広大にして甚深なる教えの限りない内容を〔小論の中に〕要約してみようとするものである。そこに、本書を説く必要性がある。

『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道〔訳注〕岩波文庫175~176頁

 上記のことを真宗の隈部慈明師が『大乗起信論精義』において箇条書きにしてくださっている

第一は、自力を以て広く経を聞いて領解するもの。
第二は、自力を以て僅かの経を読んで多くの意義を領解するもの。
第三は、自分の心で直に経を解するだけの力量がなく、経を解釈した菩薩の広博なる論によりて始めて仏意を領解するもの。
第四は、広博なる論を読破することはなかなかに煩労に堪えぬことであるから、成るべく簡単な文章に多くの義を含んでいる略論の方を好んでこれによりて能く経意を領解するもの。
かような種々なる機類あることだから、一方にはまたそれに応ずる様々な論を造ることも必要である。

『大乗起信論精義』隈部慈明 法蔵館 64頁

 このことは考えてみれば当たり前のことである。何故かというに、仏教は確かに仏宝・法宝、つまり釈尊が教えを説き始めたところを原点とし、それを仏説として最大の権威を以て仏教の教えとしているが、仏教の教えが後世に伝わり多くの人々に布教されるのはサンガ(僧団)、つまり法脈を保持した者たちがその生きた各時代の要請に合わせて法を説くことで仏教は伝わっていくのである。
 仏教とは釈尊一人の教えではなく脈々と受け継がれてきた歴代の菩薩や祖師の教学体系を含めた思想が仏教なのである。法脈を伝承してきた者は菩薩や祖師の教えを仏の教えと同等に扱っていくのであるが、それを重んじない者にとっては耐え難い考え方であろう。
 しかしながら龍樹や天親といった菩薩と称される方々やインド・中国・日本において尊敬を集めた偉大な仏教者たちは必ず師を持ち、歴代の列祖を仏祖として尊敬して仰いできたのである。 
 これは機根の問題点を重要視しているからであり、特に浄土門などでは末法思想も相俟って末代の衆生は凡夫であるから、容易に仏意を理解することはできぬという考え方である。したがって、馬鳴大士が云われるがごとく、様々な菩薩方や先徳の人師方の造られた論や釈文を拠り処として信仰や領解を深めるのである。前述したようにこれは祖師の教えに依るということである。
 「依法不依人」はブッダ在世時並びに正法時代の理想であり、無仏かつ時代の下った現代では難行道の分際である。故に「因人重法」こそが主軸となる。

法然上人の「因人重法」

 先に法然上人は善導大師の釈文を殊の外重要視していることは述べたが、その依るべき人師は誰れでも良いわけではない。善導大師が「弥陀の化身」(『人類の知的遺産18 善導』藤田宏達 講談社 46頁参照)であると当時の人々から信じられており、法然上人はこの「化身説」をもって「因人重法」を根拠を説かれる、

 この『観経疏』はこれこそ阿弥陀が直接に伝説かれたものといわなければならない。ましてや、偉大な中国に相伝えていっている。「善導はこれ阿弥陀の化身である」と。そうであるならば、「また、この文はこれこそ阿弥陀が直接に説いたものである」といわなければならない。すでに、「これを写したいと願う者は、専一に経法のように扱うべきである」と述べている。
この言葉はまったく真実である。仰いで仏の本体を尋ねると、四十八願の法王であって、いまより十劫もの長い昔に正しいさとりを得られたときから、念仏を唱導しておられたのであり、うつむいて人びとを救うために、かりにあらわした姿を問えば、これこそ念仏をひとえに勧める導師で、三昧正受の言葉は往生そのものに疑問はない。本地・垂迹と異なっているけれども、教化する道はただ一つである。

「選択本願念仏集」『日本の名著 5 法然』中央公論社 197頁

 「智慧第一の法然房」と謳われた法然上人でさえも「因人重法」を取り、「依法不依人」を取らない。『観無量寿経』を理解するには善導大師の『観無量寿経疏』の解釈なくしては成り立たないとし、善導大師の釈文を経典と同等に扱うのである。『観経疏』は善導大師という化身を通して阿弥陀仏が説かれた仏典として扱う。 
 これは真言宗などで『大日経』を理解するには善無畏三蔵の『大日経疏』不可欠とするようなものである。

 本書はたんなる注解書ではなく、『大日経』を唐密教の立場で理解し、再編成した点、極めて重要な経疏であって、『大日経』を解読するためには不可欠なものである。

『密教経典』 宮坂宥勝[訳註] 497~498頁

 つまり、三蔵法師という経論のスペシャリストの眼を通して仏教の理解を深めるのである。

「因人重法」を判断基準とする

 こうしてみると、馬鳴大士が『起信論』において云うように、末代において「依法不依人」をもって仏教を領解できる機根の衆生はほとんどいないであろうと考えられる。
 菩薩所造の論典や多くの祖師方・人師方の説示に依って仏教の信仰並びに領解を深めることは、法脈を伝承し時代に合わせて布教に苦心された菩薩や偉大な祖師の認めるところの方法論である。
 「自力でよく教えをあれこれと委しく聞いて理解し、あるものたちは自力でわずかの経典を聞いただけで多くを理解できる」ことができない末法並びに法脈を重んじる私自身は、「依法不依人」を取らず「因人重法」を判断基準とするのである。

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