見出し画像

ブッダを本名で呼んではいけない~仏教徒の取るべき態度~

ブッダを名前で呼びかけることは不敬である

 仏教におけるブッダの筆頭は言うまでもなく釈迦如来であり、その釈迦如来の本名はゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)太子であるが、仏教徒はブッダに対してこの名前で呼びかけてはいけないのである。これは釈迦如来ご自身が説かれていることなのである。

『大品』(『マハー・ヴァッガ』)の言葉


 釈尊が成道された後、五比丘の元へ赴かれた時に彼らが釈尊を本名で呼んだり、「君」という言葉を用いたが、これを釈尊は諭された場面が『大品』にある。
 岩本裕博士の訳で窺うと、

 さて、世尊はバーラーナシーへの道を次第に遊行して、イシパタナ鹿園にいる五人の修行者のところへ近づいた。五人の修行者は世尊が遠くの方から近づいてくるのを見て、互いに約束をした。
「君、沙門ゴータマがやって来る。彼は贅沢な男で、修行に精を出すのをやめて、贅沢な暮らしに溺れた男だ。だから、彼が来ても、頭を下げてはいかぬ。立ち上がって迎えてはならぬ。彼の衣と鉢を受け取ってはならぬ。だが、坐るところだけは用意してやろう。坐りたければ、坐ればよいだろう」
と。世尊が五人の修行者に近づくにつれて、かれらは自分たちの約束を忘れ、立ち上がって世尊を迎え、一人は世尊のと鉢を受け取り、一人は座を設け、一人は足を洗う水と腰掛と足をふく布を持参した。世尊は設けられた席に坐り、足を洗わせた。しかし、かれらは世尊を名で呼び、または「君」という言葉を用いた。このように言われた世尊は、五人の修行者に、このように言った。
「修行者たちよ、世尊を名で呼んだり、「君」という言葉を用いてはならない。 如来は完全に「さとり」に到達した阿羅漢である。修行者たちよ、耳を傾けて聴け。余は不死を得たのだ。余は教えよう。余は教えを説こう。教えられた通りに修行を修めるならば、良家の子弟が出家して完全な遊行生活にはいった目的を達成し、この上ない発行の理想を現世においてみずから覚り、また体験し、完成的して暮らすことになるであろう」

『佛教聖典 第一巻 初期経典』岩本裕〔訳〕45~46頁

 釈尊ご自身が仰せられることであるから、もし仏教徒を自任するならば決してブッダのことを本名などで呼んではならないのである。釈尊を本名で呼ぶことなどは仏教徒以外の人がする行為であるわけだから、重々気を付けなければならないのである。

『過去現在因果経』の言葉

 上記のことは、仏伝経典である『過去現在因果経』にも説かれている、

「世尊、五人に語りたまわく『汝等、云何ぞ無上尊に於て、高情を以て、姓を称え呼ぶか。我が心は空の如く、諸の毀誉に於て、分別する所なし。但汝が憍慢、自ら悪業を招く。譬えば、子有り、父母の名を称するは、世義に於て、猶尚不可なるが如し。況んや、我は、今、是、一切の父母たるをや。』時に彼の五人、又此の語を聞きて、倍慚愧を生じて」

『国訳一切経 本縁部四』80頁

 ブッダを姓で呼ぶなという、これは釈尊ご自身は覚者であり、煩悩は滅しておられるのであるから、当然に分別してそのように仰っておられるわけではなく、我々の憍慢心によって仏を誹謗して悪業を招かぬようにとの釈尊の御慈悲から発せられた言葉なのである。それは世間に例すれば、子供が両親のことを名前で呼ぶことは道理に違うように、仏子たる仏教徒が親であるブッダのことを名前で呼ぶことはないというのである。

仏教徒の態度

 釈尊の仰せられるところから仏教徒は今一度ブッダとの向き合い方というものを考えなければならない。釈尊は現在も常住にして在ます方であるからこそ、尚更不遜な態度を取るべきではないと思えるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?