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鎌倉時代の仏教僧・明遍僧都の生き方に学ぶ

明遍僧都の来歴

 明遍僧都は鎌倉時代の僧で、法然上人に感化を受け、三論宗や密教の聖道門から専修念仏の浄土門に転向したことで知られる遁世の念仏者。

 『四十八巻伝』中の第十六巻に明遍上人の来歴が記載されている。

高野山の明遍僧都は、少納言藤原通憲の子息である。長門法印といわれた敏覚の正統の法流を継ぐ弟子であり、三論宗の教えの奥底をきわめ、才能は世間に認められていた。しかし、名声や利得をうとましく思う心が深く、本寺の東大寺で僧侶たちとの交わりを好まず、ついに三十七歳の時、関わりを逃れ、朝廷からの仏事出仕の依頼を辞退し、光明山に住まいを定めて、諸行を捨てず、あらゆる善行を嫌わず、迷いの世界を離れる大事な方法を広く探し求め、あまねく顕教や密教の修行を実践された。当時の人たちは、明遍はこの時代に並ぶ者がいないほどの碩学であったが、昇進が遅いので引き籠もったのであろうかと、それぞれ惜しみあったところ、四十五歳の時、少僧都の位を宣下されたが、固く辞退して朝廷のお召しには従わなかった。
世間から逃れたいとの思いはますます強くなり、建久六年(一一九五)五十四歳の時、これを最後に光明山を去って高野山に身を隠し、迷いの世界を離れるための修行に、ますます打ち込んだ。智恵のある修行者といえば、近頃ではこの人である。(『現代語訳 法然上人行状絵図』浄土宗総合研究所〔訳〕 )


 その後に浄土門に帰依した由縁は以下のようなことである。

明遍僧都が、法然上人の著された『選択集』を読んで、この書物の内容にはいささかったところがある、と思って寝られたが、その夜の夢に、四天王寺の西門で数え切れないほどの病人が苦しんで横たわっている所に、ひとりの聖が鉢にお粥を入れて、さじを持って病人一人ひとりの口に運んでいた。「聖は一体どなたであろうか」と尋ねると、そばにいた人が答えて「法然上人である」と言うのを見て夢が覚めた。
そこで僧都は次のように思った。これは、私が『選択集』を偏った書物だと思っていたのを、いましめられた夢に違いない。この上人は、人間の能力や時代が悪くなっていることをわきまえている聖でいらっしゃる。病人の様子は、はじめは柑橘類、梨・柿などを食べたけれども、後には病気の悪化でそれも食べることが出来なくなったので、かろうじて重湯で喉をしめらす程度で命をつないでいる。
この「選択集」でひたすら念仏を勧めておられるのは、これと違うところはない。五濁がはびこる時代には、仏法の利益は次第に減少してしまう。近頃はあまりにも時代が下って、我ら人間の有りようは、たとえて言うと重病人のようなものである。柑橘類を食べることが出来ないように、三論宗・法相宗の教えは理解できず、梨・柿が食べられないように、真言宗・天台宗の教えは難しくてわからない。そこで、重湯が喉を通るように念仏の簡単な教えで迷いの世界を離れることが出来るのだ、と思って、すぐさま顕教や密教の諸行を差し置き、専修念仏の教えに入門し、名前を空阿弥陀仏と名乗られたという。(『現代語訳 法然上人行状絵図』浄土宗総合研究所 〔訳〕)


生き方を変えた明遍僧都

 浄土門に転向後の明遍上人の態度はそれまでに修めた学問や行は全て捨て去るという徹底したものであった。道元上人の『正法眼蔵随聞記』にその様子が記載されている。

伝え聞くところによると、今は亡き、高野山の空阿弥陀仏という方は、もとは顕教・密教に通じた高徳の学僧であった。寺を出て世をのがれ、法然上人に帰依して、念仏の門徒となってのちのことであるが、ある真言密教の専門僧がやってきて、密教の教理について質問したが、空阿弥陀仏は、これに答えて「みな忘れてしまいました。すこしも、おぼえていませぬ」とて、お答えなさらなかったのである。このようなありようこそ、道心の手本といってよいであろう。どうして、みな忘れてしまったなどということがあろうか。それにも拘らず、無用なことはいわれなかったわけである。ひたすら念仏の生活にはいった以上は、そうあるはずであると、自分も思う次第である。
(『正法眼蔵随聞記』山崎正一〔訳注〕)

※空阿弥陀仏=明遍

 人間は生き方を変えようとした時にそれまでの自分の業績や成功体験といった積み上げてきたことを思い切って置いていくことができないことが多い。
 明遍上人は三論宗・密教などの碩学と云われるほどであるにも関わらず、進むべき生き方を見つけた後はその生き方に専念することを貫いたわけである。


批難や誹謗も意に介さない明遍僧都

 また明遍僧都は誹謗中傷や批難に対しても徹底している。
 『四十八巻伝』中の第四十巻には、ある人が明遍僧都の信ずる念仏思想を非難する書物が出回っているからその内容を確認したらどうかと言われた時のその態度である。

僧都が「私は念仏の行者である。念仏を論破しようとする本を手にも取りたくないし、目にも見たくない」と言ってお返しになった。(『現代語訳 法然上人行状絵図』浄土宗総合研究所〔訳〕 )

 誹謗中傷や批難などについ目がいってしまい、その結果、心が沈んでどうにもならなくなることはよくあることだが、明遍僧都の場合は全く関わるつもりはないとはねつけているところに僧都の確固たる生き方があることがわかる。
 明遍上人だけではなく、日本歴史上・仏教史上に様々な人物がおり、その中の一人の人間に着目してみるとその人間の生き方や信念から大いに感化され得ることが多分にあるといえるだろう。



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