見出し画像

ブッダは人ではない

釈尊は人間なのか

 現在は近代以降の学者たちによって釈尊は人智を超えた存在ではなく、あくまでも人間であるという態度を取ることが主流となってる。私はこのことに違和感をおぼえており、釈尊をただの人間と見ることはブッダへの誹謗と考える。
 そのように考える理由は、管見に過ぎないかもしれないが、私自身が信仰するところの大乗仏教たる日本仏教の祖師方に、釈尊をただの人間と見なす先徳はいないからである。釈尊は我々人間と同じ姿をもってこの娑婆世界に示現してくださったことは確かであるがそれはあくまでも応化身であるのであって、釈尊の本質は報身や法身である。

曽我量深師の見解

 真宗の曽我量深上人は次のように云う、

 我々は仏教を学ぶ時には釈尊を人間なんて考えたことはない。恐らくは親鸞聖人はもちろんのこと、法相唯識の慈恩大師であろうが、玄奘三蔵であろうが、あるいは日蓮上人であろうが、道元禅師であろうが、釈尊をただの人間であると決めて仏教の学問をした人は一人もいないと思う。
 それであるのに、今はことごとく、仏教学を学ぶ人全部が、釈尊をただの人間だと決めて、その上に仏教学を成立して行こうと考えているのである。
釈尊は生まれながらにして仏様である。本来如来である。ただの人間と違う。
 ところが今日の仏教学は、釈尊は人間だと決めてしまっている。それでいいのか。今日の大乗仏教者は腹の中では大乗非仏説を信じている。仏教徒は、教主と言わるべき釈尊をただの人間だと言うている。頭がどうかしているのではないか。

『曽我量深先生の言葉』津曲淳三[編] 165頁

 量深上人の主張は近代以降西洋に影響を受けた仏教学によって、大乗仏教、並びにその流れを汲む日本仏教の信奉者までがその方法論に流されて、日頃表面上は日本の祖師方がお遺しになった信仰を述べながら、本心は釈尊を人間と決めて先徳のご信仰を蔑ろにしているというのである。

渡辺照宏師の見解

 真言宗の渡辺照宏上人は「人間釈尊」ではなく、人智を超えた「仏陀釈尊」であることを強調されている。

 仏陀ははじめから仏陀なのです。久遠成仏というのも同じ考え方に基づいています。仏陀伝説ははじめからそういう見方によって語られています。理性で割りきれるようなただの伝記とはわけが違います。仏陀伝説を学ぶことはすなわち仏教そのものを学ぶことなのです。 

『新釈尊伝』渡辺照宏 ちくま学芸文庫 75頁

 仏陀はもともと超人間的な存在であると同時代の人々に見られていた。したがって仏陀についての超自然的なできごとは(少なくともそのいくつかは)当時の人々が考えていたことを記録したものに違いない。

『新釈尊伝』渡辺照宏 ちくま学芸文庫 188頁

 釈尊は徹頭徹尾「仏陀釈尊」であるとする。仏教を哲学や学問の対象とのみ見る者や上座部系の仏教徒ならいざ知らず、大乗仏教の信仰者が釈尊をただの人間と見ることはあってはならない。

山崎弁栄師の釈尊観

 浄土宗の山崎弁栄上人は釈尊を報身的に据えている。一切経を拝読している時の自身の態度を仰っている、

ただ今お釈迦様に拝謁中であるから

『日本の光-弁栄上人伝』70頁

 敬うべき経典であるとはいえ、もし釈尊をただの人間と見るならば、上記のような経典を拝読することをブッダに謁見して直々に説法を受けているというような発言はしないはずである。これは釈尊を時空を超えて示現する仏陀・如来と見ているからである。三昧発得を成じている弁栄上人にして仏教はどこまでも信仰であるとするのである。

『涅槃経』に説かれるブッダ

 『涅槃経』の中で釈尊ご自身がブッダはただの人間ではないと仰っている、

 人々はみなシッダールタ(ブッダの幼名) 太子は初めて出家したと言った。しかし、じつは私はすでにはるか昔に出家し、道を学んでいた。ただ、世間のあり方にしたがおうとするために、このように出家してみせたのである。
 私は娑婆世界で出家し、出家者の二百五十の戒律を守り、努めて修行した。そして聖者の最高位にまで上った。これをみて、人々にみな最高位のさとりに得やすいようだと考えた。しかし、じつは私は数えきれない過去の世から最高位のさとりを完成していたのである。ただ、多くの人々を救済しようとするために、菩提樹の下に草を敷いて坐り、そこで多くの悪魔を排除した。ところが人々は、私が初めて菩提樹の下で坐り、悪魔を排除したと言った。しかし、じっははるか昔に悪魔を降伏しており、人々に勇気づけるために、このような姿を現わしたのである。
 私は大小便や呼吸をしている姿を示している。これをみて、人々は私が大小便や呼吸をしていると言う。しかし、じつは私の身体にはこのような大小便や呼吸などまったくない。世間のあり方にしたがおうとするために、このようなことをしているのである。
 信者から布施を受けている姿も見せているが、私の身体には渇きや飢えなどまったくない。世間のあり方にしたがおうとするために、このようなことをしているのである。
 また、私は人々と同じように睡眠をとる姿を示している。しかし私は、すでにはるか数え切れない昔から、このうえもない勝れた知恵をそなえていて、この世の日常生活のなかで頭痛があり、腹痛があり、背中の痛みがあり、切傷があり、また、手足や顔を洗ったり、口をすすいだり、歯をみがいたりするなどのことはまったくなかった。ところが人々は、私がこれらのことをがあったり、したりする者だと考えているが、実はそうではない。私の手足はもともと清浄である。それは蓮華のようである。口臭はなく、青蓮華のように清潔である。人々は私を人だと言っているが、私は人ではない。
 また、私はちぢれた色の衣を着ていて、ときどき洗濯している姿を示しているが、じつはそのような衣を着たことがない。
 人々はみなラーフラを私の実子だと言い、シュッドーダナ王を私の父だと言い、マーヤー夫人を私の母だと言い、そしてこの世間に住んでさまざまな楽しみを経験し、そしてそれらを捨てて出家し、修行したと言っている。そして人々は「この人はある王の太子で、姓をゴータマといい、世間の欲楽を離れて、世間を超えた真理を求めた人だ」と言っている。しかし私は、この世ではなく、過去のはるか昔に、すでに世間の姪欲などを離れていた。人々が言うようなことはみな仮の姿であって、それを見て人々は私を人と考えているようだが、じつは人ではない。
 私は、この娑婆世界に住んで、種々の仮の姿を現わしている中で、妙寂に入る姿を示しているが、これもじつは妙寂に入るわけではない。ところが人々はみな私はほんとうに死んでしまうと考えているようだ。そうではなく、私そのものは永久に消滅しないのだ。したがって私は不滅の存在であり、不変の存在であると知らなければならない。
 妙寂とはブッダのありのままの姿を現わしたものだ。
私はこの娑婆世界に生まれた姿を示した。そしてこの世間で私がはじめてブッダになったと、人々は言っている。しかし、じっは私はすでにはるか数え切れない昔に、なすべきことを完全になし終えていたのである。世間のあり方にしたがうために、娑婆世界にはじめて出現し、ブッダになる姿を示したのである。

『ブッダ臨終の説法 1-完訳 大般涅槃経』田上太秀 168~170頁

 ブッダは報身であって、人間として現れた応身は全て衆生を導くための方便あるとしている。多くの人たちは、上記の経文の言葉は荒唐無稽とも思えるかもしれないが、これが信仰というものであろう。仏教はどこまでも宗教である。
 

村上専精師の本尊観

 仏教学者であり真宗の村上専精博士は云う、

 凡そ哲学の中心は真理ありとすれば、宗教の中心は本尊にありて存するというも、敢えて不可なかるべし。基督教にありて神を本尊となし、佛教にありて佛陀を本尊となせるものは、即ち佛基両教の中心たるべきものにあらずして何ぞや。果たして然りとすれば基督教にありて神の何たるやを攷究することの必須欠くべからざるが如く、佛教にありて佛陀の何たるやを研鑚すること、亦以て頗る重要の問題なること、敢えて喋々を要せざるなり。夫れ神と称し、佛陀と号するもの、哲学を以て観れば、世界の大真理なりというべきものなれども、更に宗教を以てこれを観れば、神は神として独立せる所以なかるべからず、また佛陀は佛陀として独立せる所以なかるべからず、もし然らざれば宗教の特色は之を那辺に求め得べきや。是に於いて基督教にありては神を討究するの急務を促し、佛教にありては佛陀を研究するの要務を生じ来れり。

『佛陀論』村上専精 1~2頁

 仏教を真理や真如中心に据えれば哲学に堕するが、ブッダを本尊として考究するところに仏教の宗教たる面目がある。
さらに村上上人は、

 過去に於ける佛基両教に就きて之を考え、現在に於ける仏基両教に就きて之を考え、又未来に於ける仏基両教に就きて之を考えれば如何、余は一言以てこの比較的相違の標準を立せんとす。何ぞや、曰く神にあれ仏にあれ、絶対にあれ無限にあれ、大日にあれ弥陀にあれ、全てその名称の如何に係わらず、またその意味の如何に関せず、基督その人を以て眼鏡となし、彼に依りてこれを観んとする者は即ち基督教なり、また釈迦その人を以て眼鏡となし、彼に依りてこれを観んとする者はすなわち仏教なり。これに反して所説の如何を問わず基督その人を通じて考えざる者は、全て非基督教なり、またその所談の如何を論ぜず、釈迦を通じて考えざる者は全て非仏教なりとす

『仏陀論』村上専精545~546頁

 村上博士の云うように仏教徒は釈尊を立脚地としてあらゆることを判断するわけであるから、釈尊がただの人間であるというわけにはいかない。ただの人間であれば我々と変わらない存在である。そうなれば釈尊を絶対の基準とすることができない。ブッダは人智を超えた一切智者であるからこそ帰依することができ、絶対の信頼を置くことができるのである。

釈尊は人智を超えた如来
 

 先徳方が釈尊を如来として徹頭徹尾信仰の対象とすることは以前の記事でも述べた。応化身としての釈尊は確かに在ましたが、釈尊はどこまでも報身仏であり、法身仏であると先徳方は仰るのであるから、私自身もまた釈尊を完全な仏陀・如来として恭敬して仏教を信仰し、単に哲学や学問として仏教を見ることはない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?