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鉄道会社はもう少し、中吊り広告に責任を感じてほしい。

 就職のために関西の誇る私鉄『阪急』の沿線に住まいを構えて、もう10年が経つ。この街に来た時、これほど長い時間を過ごすことになるとは、まったく想像していなかったし、その10年はよっぽどのことがない限り、これからもどんどんと伸びていくことだろう。

 阪急がどれほど優れた鉄道会社かを説明するに、これほど難しいことはない。その地域のJRを除いた、一番グレードの高い鉄道会社と言っても、JRしかない地域もあるし、JR以外が話にならないくらいボロい……もっと言えばJRそのものがボロい、という地域もままあるだろう。電車すら走っていないという地域も、令和の時代になってもある。

 とにかく阪急とは、東西に長い路線を持ち、かつては古豪のプロ野球球団と、その根拠地たる大きな球場を持ち、歌って踊れる女だらけの歌劇団を有する、三都の近代文化と経済発展を支えてきた、関西の顔とも言える鉄道会社だ。

 そんな阪急が少し前、『ある中吊り広告』で炎上した。

 つまんない仕事で50万貰うのと、楽しい仕事で30万貰うのどっちがいい?

 というよくわからない広告を打って、燃えた。めちゃめちゃ燃えた。この『ギリギリ読めるけど意味は分からない文章はなんなのか』とぼくでも思う質の低い挑発的な広告を打って、めちゃめちゃに燃えた。

 20代30代の所得の中央値は低い。単純に若いから、ということもあるが、非正規化や税制の加重化によって、その値は年収で300万円にも満たない。一方でそういう人たちの労働時間は増える一方で、労働時間に対する賃金の低さは、政治的な喫緊の課題ともいえる。

 そういう疲れた人たちの乗る電車に、楽しい仕事で30万稼ごうや、と言えば、それは挑発以外の何物でもないだろう。事実、それは若者をバカにする言葉として、また経済的な事実に基づかない『年寄りがよくする夢見がちなそしり』として、阪急らしからず、めちゃめちゃ燃えた(もっとも、阪急グループの中には、クッソつまらない50万円の仕事と、ハチャメチャに楽しい30万円の仕事があったのかもしれない)。

 ただ阪急電鉄は、そういうバカをやる会社ではない、と思っている。歴史は古く100年を超え、当時の国鉄を有する日本政府からの無理難題(国鉄が良い立地に駅を造るからお前らの駅をどけろ…等)にも、努力と根性で応えてきた由緒ある会社だ。

 ただどうも、この『中吊り広告』については、部署が異なるのか、しばしば変なことを言い出したりする。

 ある日、こんな広告を目にした。

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 言いたいことは、まあなんとなくわかる。ヘルプマークというものがあって、それを身に着けている人にはなるべく優しくしましょう、というものだ。

 ただ、これ、日本語の意味はよくわからない。読めるが、よくわからない。ゆえにすさまじく不快なのだ。

 大人ってこどもだなあ、と言っている人物は誰なのか。

 大人なのか、こどもなのか。まずこれがわからない。

 大人だとしたら、大変な思い上がりの高慢ちきだ。こどもは席を譲らない、傍若無人なワガママモンスターだと言っているようなものだ。こどもにだってこどもながらの優しさや思いやりはある。そうでなければ小学校は毎日が戦場だ。

 一方でこれを、こどもが言っているとしたら、これもまた、おかしな話なのだ。やはりこども自身、こどもはいたわりの心を持っていない、自分さえよければそれでいいと考える、冷たい血を持つ出来損ないだと考えている悲観主義者……と考えざるを得ないのだ。そんなことが広告的にアリだろうか。いや、ナシだ。

 そして仮に、こどもが大人を揶揄しているのであれば、このこどもは将来ろくな大人にならない。大人をバカにして、本当に困っている人をただ傍観して、あーあああいう大人にはなりたくねえなあ、と言っているようにしか見えないのだ。ヘルプマークを付けた人を助けたい、というのであれば、もう一歩進んだ表現が出来たはずだ。

 ママ、パパ、これなあに? とこどもに無邪気に言わせて、周りの大人の耳目を集めるだけでいい。その程度でいいのだ。

 もっともこの広告が不快な点は、『見えていないことに対する考慮』が一切なされていないのだ。

 もし今、窓を開けて空に向かい、ブラジルの人に語りかけたとしよう。返事がなかったからと言って、ブラジル人は心無い、日本人の問いかけを無視する存在だ、と言えば、オメェなに言ってんだ、と言われるだろう。なぜか。当然、聞こえるはずがないからだ。

 水戸黄門だってそうだ。印籠を見せられるまでは、周りの人間はしがないちりめん問屋のジジイとしか思わないだろう。なぜか。印籠は、見えていないからだ。もしかしてこの老人は、徳川や御三家に通ずる名門の客体かもしれない、なんて考えて生きている人は、たとえ現実世界であってもフィクションの世界であっても、そういった人間の存在を考えるほうがバカバカしいだろう。

 ヘルプマークだって、見えていなければ目の前の人はただの人なのだ。

 もしかして目の前にいる人は、タレントのピーコさんのように、目の片方が義眼かもしれない。

 もしかして目の前にいる人は、パラリンピアンの山本篤選手のように、片足が義足なのかもしれない。

 もしかして耳が聞こえなかったり、うまく話せなかったり、あるいはもっと重い病と闘いながら日々を生活しているのかもしれない。太っているのか妊婦なのかさえ、傍目で分かる人はそう多くないだろう。男女の判別ですら、一概にそうだと言えるぱっと見の根拠は、この世に何一つないのだから。

 電車の座席に腰をおろした時、目の前にいる存在が今にも倒れそうなほどの苦難に立たされている可能性を考慮することが大人の義務なら、ぼくは一生、こどものままでいたいと思う。

 この中吊り広告から感じたことは、それだ。

 阪急電鉄はこの広告をして、いったい何を伝えたかったのだろうか。阪急電鉄は本当に、広告の中身やデザインを精査しているのだろうか、という疑問を乗せたまま、電車はしばらく走り続けていた。

 これが関西の顔たる鉄道会社の、心からのメッセージだとは、あまり思いたくはなかった。なぜならそう、ずいぶん程度が低いからだ。

 ただ、ただ、である。

 この広告の中の何者がこどもなのか、精一杯、目一杯、力一杯に頭を働かせて考えた時、ガニマタで座っている行儀の悪い人をして、こどもだなあと言いたいのであれば、そうであれば、それでいいと思う。

 ぼくって広告を見る目が、こどもだなあと、イチャモンをつけた自分を恥じるばかりだ。

 

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