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コロナと戦う人を応援するテレビ大阪。

ここ二週間で世の中の感覚は、コロナ、なんてずいぶんポップに略したものである。とはいえインフルなんてポップに略したり、流感なんておごそかに略したりもする。よく使われる名詞が略語になるのは、必然のことなのかもしれない。

さて本題。

先日の土曜日の昼、テレビ大阪(テレビ東京系列)で映画の放送があった。1997年に制作された、『ボルケーノ』という映画だ。20年以上も前の映画について、ネタバレだと言われる筋合いももはやないので、あらかたのストーリーとその結末を書いてしまうことへの許しはこわないことにする。ごめんね。

監督はミック・ジャクソン。日本では知名度がないものの、その出来栄えを高く評価された『核戦争後の未来・スレッズ』や、その名を世界に轟かせた名画『ボディーガード』の人。

主演俳優はすっかりコーヒーおじさんとなったトミー・リー・ジョーンズの、カリフォルニア州の大都市直下で突如として噴火が起きるという災害パニック映画だ。時代が時代だけあって、描写がやや事実に欠けたり、展開がガバついたりするのだが、パニックモノとしては今でも十分に楽しめるほど、そのクオリティは高い。

「おっ、いい映画やってんじゃん! まだ始まって10分ちょっとしか経ってない!」と喜んで、チャンネルを回す手を止めたのだが、しばらくしてふと、ある考えがよぎった。

これには意味があるのではないか、と。

古くから、『創作物に対しては、誤読する権利がある』という有名な言葉がある。これは受け手の数だけその通りの解釈があり、えてしてそれらのほとんどは間違いとは言い難い、という言葉だ。

たとえば芥川龍之介の羅生門を読んだとして、死体から髪の毛を抜く老人の言うとおりだ、という人もいれば、いやいやそうであっても人間は一線を越えてはならない、という人もいる。それらの考えはどちらも正しくあり、そして双方の観点からすると、お互いが間違っているとも言える。

つまるところ、『受け手の考えに間違いというものはないし、また作者もそれらを強く否定することは出来ないという認識で、創作物やその論評に触れたほうが精神的にも良い』という話である。

事実誤認なく情報や文章を読めていれば、という前提はもちろんある。個人の言っていることのすべては否定しがたい、とする名言でないことは、誤解なく言っておきたい。

そしてテレビの受け手であるぼくは、思ったのだ。

『これは昨今、非常につらい戦いを強いられている医療従事者に対する、陰ながらの応援なのではないか』と。

映画には様々な人物が登場する。

州の安全保障を担当する主人公。マグマとはなんだ? と言われる当時の認識の中で、主人公を信頼し噴火やマグマの動向を助言をする地質学者。人員を配置するオペレーションを担当する主人公の部下。マグマによる火災や、火山弾によって起きたけが人を治療する医者や病院。炎と戦う消防士、地下鉄の保安員、警察、州兵、土木作業員、被災した子どもをあやす少年少女たち……など、どの場面においても災害と戦う人たちの横顔が映し出される。

個々人の手では決して止めることの出来ない噴火という災害に対して、大小さまざまな人々が、立場や職場の垣根を越えて、猛烈な災害に対する戦いをくりひろげていく。

そうしてギリギリの戦いが、折れそうな精神の中で続き、最終的には力を合わせた人類によってマグマは海へ続く排水路へと放出される。

こうした映画をこのタイミングですることに、なにか意義や意味があるのではないかとぼくは感じた。

噴火はさまざまな災害に置き換えることが出来るし、同様に、疫病にも置き換えることが出来る。

今はどうだろう。

現場で奮闘する医者や看護師がいて、救急車を走らせるドライバーやそれ専用の資格を持った救命スタッフもいることだろう。どこかの研究所では寝ても覚めても新種のウイルスに対する研究が行われていて、時差や昼夜を越えた工場では、医療品の製造がひっきりなしに行われているだろう。そしてそれらを流通させる配達員もいれば、彼らを効率よくまとめるオペレーターも必要不可欠だ。

映画を観客として見れば、この苛烈な戦いは主人公の勇気ある決断によって、数十分後にハッピーエンドを迎えるだろうと予測がつく。終了時間の予告されない映画や芝居はない。およそ二時間の後、良かったとか悪かったとか言い合えることが約束されている。

けれども映画の中の人物たちに、終わりは約束されていない。

この戦いは本当に終わるのか、あるいは終わった時、その戦いの勝者はいずれにあるのだろうか。戦いを終わらせるような神の一手を打つ人間は現れるのだろうか、という不安を常に抱きながら生きているはずだ。

今はどうだろう。

この戦いはいつ終わるのか、という声は少なくない。

けれども我々は今、フィクションのようなノンフィクションの世界の中にいる。終わりを知る人間などいなければ、それを終わらせる決断をする主人公の存在も、我々の知るところではない。知る道理など、どこにもない。

すべてが終わった時、すべてが終わったとしか、言いようがないのだ。

明日をも知れぬ中で、いつ終わるとも知れぬ戦いに赴かねばならない人たちがいるということを、テレビ大阪は、この名画を通じて知らせたかったのではないか……と、ぼくは誤読した。

いつかテレビ大阪の偉い人が笑いながら、「いやあ、あの時、実はこういう映画を流しましてね」なんて言ってくれる日が来たら良いなと思う。そういうふうに読み誤りたい。けれども同時に、「まったくそんな事考えていなかった」なんて可能性もありうる。大いにある。

しかして賽は投げられた。誤読する権利が、我々には与えられたのだ。

テレビ大阪は映画を通して、世界のどこかで誰かのために戦う、世界のどこかの誰かために、世界のどこかの誰かを応援しようと、そう言いたかったのではないかと、ぼくは読み誤ることにした。

映画ボルケーノの終わりは、とても心地よい。

両親とはぐれた一人の子どもが、「お父さんとお母さんを探そう」と警官に言われた時、あたりを見回してこう言った。

「みんなおんなじ顔をしている」と。

夜明けの街。噴火のもたらした灰によって、大人も子どもも、男も女も、白人も黒人もヒスパニックもアジア人も、すべての人間がすすけた黒い顔をして、みんな笑っていたのだ。

監督はこの一言を言わせたかった、人種の垣根を越えた時に発揮される人類の力強さを描きたかったのではないかと、映画の総評をしたい。

医療従事者に、がんばってください、とは言えない。ぼくは映画の中の、取るに足らない風景の一人でしかない。けれどもすべてが終わった時、ありがとうございました、と言えるような気持ちを忘れないでいたいと思う。

いつかみなが同じ顔を、笑顔でいられる日を願って。

そしてテレビ大阪さん、いい映画をありがとうございました。

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