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ラグジュアリーという怪物(あるいはテセウスの船翻案)

*テセウスの船について一般的かつ学術的な理解から遠く離れた解釈を記述し、スムーズな展開に利用していることに留意されたし。本来の語義と決別した上で側面を見つめている旨。

テセウスの船。便利な頻出ワードになりつつあるこの神話は、実際、絶望的な悲劇についてのものだということを多くの人は知らない。ミノタウロスの迷宮からアリアドネの傷心、そしてもう一つの船の話まで結びつき、イアソンの衝撃的な死までテセウスの呪いは付きまとう。が、今日は悲劇を語り尽くす会の集まりではないし、自分で読んだ方が面白いに決まっているので、テセウスの伝説を読んでみるかどうかはそちらに任せる。今日の話を理解するにはこの陳腐なイディオムの意味がある程度つかめていれば十分だと思う。
継ぎ足し続けた秘伝のタレは、結局のところほとんどは入れ替わってるんだから、普通のレシピで一から作ったタレとそこまで変わらないんじゃないかな、なんて考えたことはあるだろうか?もし残ってたとしても3日前のタレくらいだろ、とか?タレは混ぜることができるから、ひょっとしたらほんの少しは、本当の創業当時のタレが残っているかもしれない。しかしテセウスの、戦いで傷つき修理を必要とする船において、古いパーツと新しいパーツは混ぜ合わせることなどできない(自由な運動をする分子の集合体である液体ではなく、ソリッドこの上ない乾燥した木材だからだ、当然)。かつて打ち込まれていた甲板は、焼鳥のエキスを吸った魅惑の壺ダレと違って、思い出以外の何も未来に残せない。思い出は残る。それが重要だ。思考実験が成立するのは、英雄テセウスとともに冒険したデリア号には夢と思い出が残っているからなのだ。この記憶に価値を見出すことは、無意味で幼稚な幻想だろうか?あるいはそうかもしれない。物質の絶対的価値というのは、誰が見てもわかるような、船工の手により完成した船の輝かしい進水式の風景なのかもしれない。現金化するとしたら当然その時点が最高額だし…。


目に見えないものに価値を見出すかどうかというのは、これまでの長い間ずっと、我々にとっての命題であり続けた。記憶に、名前に、愛情に価値はあるのか?そもそも価値というものの定義自体目には見えないものではあるまいか。通貨との兌換性のことだろうか?今日、世界中の誰一人として、兌換紙幣を銀行に持って行って窓口で金と交換するヤツはいない。紙幣は既に見えない価値を確立したのだ。ただ、だ。ただ、この見えなさというのは、あくまで記号としての見えなさであり、相対的に評価することが可能であるという点において、テセウスが我々に突きつける記憶の価値性や、また今日の主題であるブランドネームの本質的無意味性とは一線を画している。

ブランドネームの本質的無意味性。基本的に衣服のついての話になるが、あるいは家電や、食材や、音楽について応用可能かもしれない。
一定の衣服と、別の一定の衣服との間に想定される差異は一体なんだろう。材質、工程、人件費まで考えてみたい。現状手に入るものの中で差異を最大にしたい。まず何について考える?ユニクロだろうか?マスプロダクションかつ中国の新疆コットンを使用するなど、製造費のコストカットは著しく思える。販売店の内装もシンプルだ。主に白を基調としある程度の感覚で鏡を設置、旗艦店や大型店でなければサイン類もそれほど必要なく、大規模な工事や革新的な設計が必要なものには思えない。そうして量産した画一的でチープな店舗に数人の社員とアルバイトを配置し、スタンダード(Japan standard, obviously)な接客を行えばよい。ハイコストには見えない。それではもう片方の脳髄で他のメーカーについて考えてみたい。ここで登場するべきなのはいわゆる「ラグジュアリーブランド」だろう、もちろん。各国につき数着しか入荷しないような小さなラインで発注を行い、素材は手工業品や環境に配慮した天然素材(あるいは石油でできたフェイクレザー、当然だ)をチョイスし、縫製や組立も職人の手で行われることもある(この場合の個体差はいわゆる味に置き換えられる)。自動ドアを設置するような妥協はせず、ドアを開けるために一人分の雇用を創出し、一等地の広い空間を贅沢に使った進歩的ディスプレイを見せつける。マンツーマンの接客時に提供される水はもちろんラベルレスで、環境への配慮を実感しながら、眩いネオンサインの影や空調の効いた部屋で飲むと最高に美味であるらしい。ローコストには見えない。見るからに必要最低限のサービスを提供し、最高級の衣料と持続可能な地球環境を提供することに誇りを持っているようだ。
そしてこれは明らかに嫌味だ。

上記に述べた各サイドのメーカーによるコスト戦略を考えると、双方の値付けになかば信じがたいほどの差がつくことも納得できるように思える。これだけ次元の違う行為をしておいていまだに10馬身差に収まっていることのほうがむしろ不可思議かもしれない。根本的に違う産業だと考えられてもおかしくない(実際、そう考える人たちも多い)。さらに、あえて触れなかったものの、本来ならこれに加えて莫大な広告費用が計上されるのだ。貧乏人がいくら僻んだところで、ラグジュアリーメーカーは経費をまかない最低限の利益でクラフトマンシップを届けるために存在するに決まっている。
当然これも反語表現。


これだけの実際的経済規模を鑑みて、それでもなお無価値さを確信するのはなぜか。
それは「これだけの経済規模」が全て虚構の上に成り立っているからである。この場合、虚構というのは存在しないものやおとぎ話のことではなく、存在する、クソみたいな現実のこと(BULLSHIT)だ。形骸化して、もはや現実とも呼べない、LVMHの利権や、富裕層の商売だけでギリギリ今の形を保っている世界を回し続けるための、欲望と貧困を餌にした内燃機関の表面を飾る存在が、それらのファンシーなもろもろなのだ。もちろん巨大な企業にとっても、我々小人が大事でないわけではない。それどころか、実際彼らは我々を酷く恐れているし、だから自身を美しく飾り続けるのだ。広告を打ち、巨大な看板を飾り、くだらない雑誌の数ページごとに彼らは登場する。彼らにとって幸運なことに、富豪のパーティをまるごと上に乗っけた大きな板の下で、市民たちはプチプラを買い求め続ける。そうしてどんどん貧富は深い溝で分たれ、来る日には何もかもがその限界を迎えて崩壊する。形而下的には流行や経済は回転しているように見えるかもしれないが、実際には足のつかないプールで泳ぎ続ける疲労した形而上的巨人なのだ。彼の泳ぎは平らな地球の最果ての滝まで続くだろう。そしてBULLSHIT ENGINEがそれを加速する。

簡潔で現実的な言葉で述べるなら、それら高級品を高級たらしめるものは、本来必要ないもので、形骸化した資本主義のシステムがそれを肥大化させ、生活の変化を恐れる僕たち人間はそれに気づかないふりをしている。相対的に生まれた評価が一人歩きして、価値観共有の世界の中で高い方へ高い方へ引っ張られて膨らんでしまった。
デザインやアートを楽しむというのは本来娯楽で、それを社会システムに組み込んでしまったことで価値付けや対価の支払いが必要になってしまい、プレタポルテやスーパーカービジネスに繋がってしまった。僕は共産主義思想家ではないが、健全な市場原理はもう失われているし、勇気を持って足並みを揃えてそれに対処することは、世界人口が80億人超になった現在は不可能に近いだろうと考える。グローバリズムも台頭するし…。
(after all,)ブランドの価値は目に見えない怪物によるもので、現状確かに存在するけど、しかしダークサイドにだ、ということ。僕たちがそこにあると思っていた、デザイナーへの敬意や、新しいデザインの産声、美しいものを広めたり保全する意義やヘリテージへの畏怖は、もはやほんの一握りしか残されていないのだ。

長い時間をかけて、本質的な敬意と発展への意思が、経済的欲求や形骸化した表面上の美意識に入れ替わってしまったこの産業は、その始まりの頃と同じ姿をしているだろうか?本物の美学が、あるいは変革の意思が、新たな美しさの誕生に貢献したあの頃と?

*そしてLVMHという怪物の値付けは芯を持った良心的新鋭ブランドの価格設定にも影響する。彼らはプチプラに成り下がらないようにしなければならない。この次元ではインフレーションはインフレーションの姿をしていない

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