未来の演奏

 黄金時代の巨匠たちはそれぞれ独自の個性を確立し、誰一人として似たような演奏をする者はなかった。しかし皆に共通していたのは、ピアノから美しい音色を引き出し、楽器を歌わせることができたということだ。個性、音色、歌。これこそが、現代の若い演奏家に著しく欠けているものだ。芸術において最も大切なもの、最後に残るものは結局のところこの個性でしか有り得ない。彼らは楽譜を自由に扱ったが、それは決して改ざんなどではなく、そこで求められている音楽的効果を強調するためのものにほかならなかった。フリードマンが黒鍵のエチュードの結尾近くでおこなった息をのむグリッサンドは、原譜にある、シンプルな単音での真珠のように煌めく音の下降によって生まれる音響効果を、より広範囲で、音の数を増やし一気に駆け下りることで強調したに過ぎないのだ。昨今の楽譜至上主義は芸術にとってとても危険な傾向だと言わざるを得ない。
 近年、音楽作品のあらゆる版を検討した決定版(そんなものは現実的には不可能なのだが)なるものを出そうとする流行がある。仮にその決定版とかいうものがうまれ、多くの演奏家が同じその版に釘付けになって、楽譜至上主義のもと猛練習を重ねた結果はどうなるだろうか。もちろん、表現の程度には個人差があるから、機械のように正確に同一の演奏となることは有り得ないが、限りなく「同じような演奏」に近づくことは言うまでもない。これでは、いずれ芸術の担い手が人工知能に取って代わるのではないかという、バカバカしい考えがまことしやかに囁かれるのも致し方がないのかもしれない。
 若い学生や演奏家には自分の個性を主張することを恐れないでほしい。例えばある曲を初見で演奏しているとき、本能の赴くままにppで弾いた箇所が、あとで綿密に楽譜を見直した際、fと書かれていたからといって、すぐにその本能が導き出した貴重な「間違い」を反故にすることはしないでほしいのだ。それは本当に間違いかもしれないが、もしかしたら、作品に新たな光をあてる独創的なアイデアなのかもしれないのだから。楽譜に書かれた真実を知ったうえで熟考し、それでも自身の感じるままに犯したその「間違い」に可能性を見出し、それが正しいと確信したのなら、勇気をもってそれを実行してほしい。あなたの確信に満ちた「間違い」は、いつか必ず聴衆の共感を勝ち取ることだろう。
 不安と恐怖は痛いほど理解できる。聴衆というものはいつでも、演奏者がたった一つの音符を弾き漏らしたり、楽譜の指示を無視したりすると途端に動揺し、それがほんの一瞬の反応であったとしても、嫌というほど弾いている側に伝わってくるものだ。そういう反応はその後の演奏者の心理に良い影響をもたらすことはないので厄介だ。しかし、私は断言する―作曲家が楽譜にその作品の完全な姿を、可能性の全てを書き記すことは不可能であると。音楽学者が書いたこと、教授に言われたこと、楽譜に記されていること、世間一般の常識と違っていようと、あなた自身の感じるままに演奏することが、あなたがその数え切れぬほど弾き古されてきた名作をあらためて取り上げる意義でもあるのだ。すでに示された解釈をただ繰り返すだけなら、あなたがその作品を弾く意義はほとんどないといえるだろう。人工知能の演奏会に人々が詰めかけるような滑稽な未来のヴィジョンを打ち砕くのは、若い演奏家たちによる勇気ある個性の主張である。もっと大胆であれ。誇張しなさい。驚きや効果を与えることを恐れてはいけない。あなたたちには才能がある。自分の内なる声に耳を傾け、それを信じなさい。芸術において何よりも大事なのは才能=個性なのだから。
 この演奏家の立派な勇気を受け入れるためには、聴衆の意識改革も必要である。つまり、芸術はスポーツではないということを思い出さなければならないのだ。昨今のコンクール市場がもたらした最大の弊害を取り除かなければならない。音楽の演奏において、必ずしも間違った音をたくさん鳴らす人が下手なのではなく、楽譜の指示に従わない人が勉強不足なのではないのだ。これらが明らかにすることは、皆が皆、演奏の良し悪しを頭で判断しているということだ。書かれてある音符のすべてを正確に弾き切るような演奏は、奏者の高い芸術性を証明するものではなく、単に優秀な身体的運動能力を示すだけのものでしかない。芸術にはスポーツのように、明確な勝ち負けを決めるルールブックなど存在しない。最終的な評価は時の流れが下すが、すべての価値はいかに感動を与えるかによって決まる。感動は頭ではなく心で感じるものだ。若い演奏家が少しばかり聴き慣れない解釈をしたからといって、感情の迸りに我を忘れて間違った音を撒き散らしたからといって、すぐに拒絶するようなことなく、心を開き切って聴くよう努めなければならない。真に独創的なものを黙殺し、量産型高性能演奏マシーンにいつまでも拍手喝采しているようでは、芸術の未来は破滅への一途を辿るばかりであろう。
 現代に生きる我々は、ラフマニノフの金言「音楽は心で生まれ、心に伝わるものでなければならない」を今一度思い起こす必要がある。音楽の創作も、演奏も、鑑賞も、「考える」ことより「感じる」ことのほうが重要なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?