座興 2

今をときめく若手ピアニストのリサイタルに半ば強引に連れて行かれた彼は、その帰路、私を酒場に呼び出すと、席につくなり、憔悴しきった様子で、心の内を、吐露し始めた(彼はまだ何も飲んでいなかった)。

「約二時間、退屈さに押しつぶされながら座っている身にもなってくれ。今日聴いた曲は今まで幾度となく親しんだ作品ばかりだったけれど、新しい発見なんてひとつもありゃしなかった。すでに知っている作品の内容を延々と繰り返されただけ。平坦で、何の感情の起伏もない演奏に対して、拍手喝采が送られている。思わず吹き出しそうになったよ。棒読み役者の舞台を観て拍手喝采する客がいるかね?ところが、音楽の世界ではそれが現実となっているんだからなあ。さらに滑稽なのは、棒読みのくせにそいつ、身体だけは始終動き回っているんだ。表情なんて見ちゃいられないよ。鳴っている音楽は平凡なのに、お顔は千変万化。あれは新手のお笑いじゃないのか?笑うな、というほうが無理な話だよ。醜い表情そのものを笑っているんじゃなくて、演奏そのものと全く釣り合っていないことが可笑しくて堪らない。コントだよ。平凡さを誤魔化そうとしてるのか、不釣り合いに気づいていないのか。どっちも悪いけど、もし後者だとしたら今すぐ音楽を辞めるべきだね。さらに言わせてもらうと、始終一本調子に弾きながら、そいつは時折笑うんだよ。いかにも‘私は音楽に心から浸っています。楽しんでいます’とでもいうように。ゾッとしたね。そういう反応は聴衆側に自然と起こるべきものであり、演者自身がすることじゃないよ。気味が悪い。

‘昔は良かった’。これはいつの時代も云われてきたことのようだ。今から100年前のピアニスト黄金時代にも、ラフマニノフやブゾーニ、ホフマンらがそう嘆いていたそうじゃないか。しかし僕に言わせれば、彼らの時代が、リストらに代表される19世紀ヴィルトゥオーゾ時代より劣るとは到底考えられない。リストやルビンシテインの録音は残っていないから、実際に聴いて比較することはできないけれども、少なくとも、楽器そのものや演奏技術の進歩、そして黄金期のホフマンらの演奏録音を考えれば、彼らの意見はあまりにも悲観的過ぎるのではないかと疑うのも無理はないでしょう?黄金期の巨匠ピアニストたちの多くは、偉大なアントン・ルビンシテインを実際に聴き、彼を究極の理想とし、精進し続けたのだ。常に心の内に到達すべき演奏の姿を留め、それ故、満足することなく自己を高め続けられたのだと思う。その結果、彼らは、おそらくリストですら夢にも思わなかったであろう、前人未到の演奏領域にまで達することができたのではないだろうか。

ああ、現代の演奏レベルの低下は、まったく不思議なことでも何でもないんですよ。何故なら彼らは昔の巨匠の演奏を、これっぽっちも知らないんです。昔どころじゃない、現在、第一線で活躍する著名な演奏家すら聴いたことがないのです。子供の頃から、毎日毎日、飽くことなく自身のお指の体操に明け暮れ、先生の言うことに一も二もなく従い、自ら考えることなどもってのほか、他人の演奏には目もくれず、先生が‘よし’と言えば、もうその曲は完成したも同然、ちょっと難しいパッセージを途中でつっかえることなく、テンポも落とさず弾けたらあっぱれ合格、次の曲へ移るというわけです。作品自体を聴き、楽しむことなんてないんですよね。音楽ってのは本来聴くものでしょう。それをすっ飛ばしてきた輩を音楽家と呼ぶなんて、世も末です。内に籠もり続けて外の世界を全く知らない。百年以上も前の、彼らの達成したことなど足下にも及ばぬ偉業を知らないからこそ、次元の低いレベルに甘んじていられるのでしょうね。しかしこのことは演奏者だけでなく、同様に無知を極めた聴衆にも罪があるといえます。正しい鍵に、正しいタイミングで指を置くことができるのを披露する体操発表会を、音楽のコンサートと勘違いして、アホ面晒して一生懸命ブラボー叫んでいる連中が、不勉強極まりない自称演奏家どもを甘やかしいることを自覚しろ!お前たちのいう‘いい演奏’の条件を当ててやろう。間違った音は最少、テンポはまるでメトロノームのように凝り固まり(彼らのいうところの‘正確無比’)、感情を込めていることを顔や身体できちんと(笑)表現している、記憶の中にあるその曲のイメージから大きく逸脱しない、奏者の見て呉れが良い、これが揃えば満足なんだろう。逆に‘下手な演奏’はこうだ。ミスタッチが多い、テンポの変化が激しい(彼ら流の言い方をすれば‘不安定’)、音楽とは無関係の派手な身体的パフォーマンスがない、自分のもつ曲のイメージとかけ離れている、容姿が醜い。

言葉が汚かったね。申し訳ない。
‘昔の方が優れていた’。僕は今なら声を大にして言うことができる。これはもう悲観でも何でもなく、一つの真実だから。悲しいことだけどね。淡い期待を胸に、現代ピアニストのリサイタルに足を運び、失望して帰ったことがこれまで何度あっただろう。彼らがその作品について云わんとすることが、何も聞こえてこないんだよ。僕はこうした体験を幾度も経て、もうこういった演奏に時間を割くことをやめた。新しく出てきた才能とやらにも、自ら進んで聴く気が全く起こらなくなった。僕の芸術的欲求を満たしてくれるのは、いつも変わらず、ノイズ混じりの巨匠たちの録音だけだった。今度も僕はまったく乗り気じゃなかったんだ。コンサート通いが日課となっているある先輩が
「君も古いものばかり聴いて新しいものに目を向けないのはよくない。若者たちは日々進歩している。もう長いことコンサートには行っていないそうじゃないか。その耳で彼らの豊かな才能を確かめるべきだ」
と言うので、よほど「始終棒読みの役者の舞台を、一体誰が観に行きたいと思うんですか?」と問いかけたくなったが、その時はグッと堪えた。残念なことに、いや予想通り、僕の耳はその若者の‘豊かな才能’を聞き取ることができなかった。彼の演奏は、僕がそれまで気づかなかった“作品の新しい美”を提示してはくれなかった。会場は見事に人で埋め尽くされ、八割の客が立ち上がって喝采し、そこかしこでブラボーの声があがった。一際大きく叫ぶ声に聞き覚えがあると思ったら、テレビのバラエティー番組でよく見かけるタレントだった。僕はその叫喚の中で、ひとり恥ずかしさに悶えていた。一体何によって、何のためにそう感じたのかはわからない。時代の感覚から置き去りにされた自分自身のためか、音楽を聴く耳をもたない馬鹿な聴衆のためか、優秀な運動神経を披露しただけなのに芸術のために生きていると勘違いし、満面の笑みを湛えて喝采のただ中にいる愚かな演奏者のためか。
恥ずかしいやら可笑しいやら、とにかくなんとも苦々しい気持ちでいるところを、あの先輩が、まるで御自分のコンサートを終えたかのように晴れ晴れとした表情でこう絡んできたんだから堪らない。
「やあ、どうだった?今日はこれまで聴いた彼の演奏の中でも特に素晴らしい出来だった!今日の彼、よっぽどノッてたんじゃないかな?あ、そうそう、僕の席から少し離れたところに女優のXと俳優の、あれ?何だっけ?名前は忘れたけどCMなんかによく出るさ、いたよね!2人とも前に彼とテレビで共演してたからなあ。もしかしたら彼、あの女優と付き合っちゃうんじゃない?(笑)タレントのTもいたよね!音楽なんて聴くような柄じゃないのに(笑)。政治家、歌舞伎俳優、ロックバンドのメンバー、アイドルグループのプロデューサーも来てたね!各界のお友達がこぞってやってきてるのであれば、彼もいつも以上に気合いがはいるよなあ。いやあ、それにしてもいい演奏だった!なあ!次の公演も本当に楽しみだよ」

彼が僕に返答の機会を与えなかったことにどれほど感謝したかしれない。断っておくが、僕は他人様の楽しみをとやかく言ったり、否定したりする気は毛頭ない。ただ、彼の楽しみに、僕自身が共感することができなかったまでの話だ。彼が間違っているとか、そういう話ではないことだけ強調しておく。逆に僕の趣味は彼の共感を得られないだろうし。とにかく現代演奏家に対する僕の無関心は、今回の一件で揺らぐどころか、ますます強固なものとなったと云わざるを得ない」

一通り喋り尽くした後も、彼はずっと沈んだままだった。震える唇が、彼の心に深く染み込んだ不快さ、やるせなさを語っていた。私はその時、彼を窮地から救うであろうひとつの吉報を思い出した。
「それは災難でしたね。ところで今日YouTubeをみていたら、ヨーゼフ・ホフマンの短いサイレント・フィルムと、バックハウスの、多分未発表じゃないかな、50年代の放送録音がアップされてましたよ。もうチェック済みですか?」
彼の表情はみるみる明るくなった、と思うやいなや、突然席を立ち、勇んで言い放つ。
「君ん家へ行こう。この干からびた耳に一刻も早く潤いを与えなければ。コルトー、フリードマン、ハンブルク...今夜は朝まで聴き通しだ。明日休みだろう?付き合ってもらうよ」
二人脱兎のごとく、店を飛び出す。

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